溺れるところを見てみたい
細かいことが気になるタチでして……。
先日、SNSサーフィンをしていたときに、
「我が子を溺愛しています」
ご自身のことを、そう表現されている方がいらっしゃいました。
「深く愛している」ということを言いたいのだということは、よくわかります。
しかし、一人称で「溺愛」と表現するものなのでしょうか?
気になって辞書を引いたところ、
「むやみにかわいがること。度を過ぎた愛」(ポケットプログレッシブ国語辞典)
とありました。
またネットで調べたところ、
「相手を客観的に見る目を失い、むやみにかわいがること」(Weblio辞書、大辞林より)
ともありました。
相手を客観視できないほど、必要以上に愛してしまうことのようです
他にもネットでいろいろ調べてみましたが、やはり一人称より、三人称で使用する方が違和感が少ないと感じる人が多いようでした。
溺れている状態の自身のことを、「溺れています」なんて表現したら、「いや、客観視できてるじゃん!」とツッコミを入れたくなってしまいます。
よ~し! これで解決!
……本当に解決だろうか?
そもそもなぜ私はこの一人称で使用する「溺愛」に執着するのかということが、自身のことながら気になるのです。
おそらく私は、誰かを溺愛できる人がうらやましいのです。
今までの人生を振り返ると、「誰かに守ってもらった」という実感は薄く、自身で解決したことの記憶ばかりが鮮明に蘇ります。
「結局、自分を本当に理解し、守れるのは自分だけ」
そう強く思っているからこそ、一人の人間に執着し、我を忘れるのは危険だと感じています。
「本当にこの人を信じていいのだろうか?」「何か裏があるのでは?」と考え、己を律してしまうのです。
その一方、例え僅かであっても、他人に疑いを持ちながら生きる自分に息苦しさを感じてもいるのです。
これからの人生、溺れて自分を見失わせてくれる人物に出会えるのでしょうか?
自分の溺れるところを見てみたい、と思う今日この頃です。
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