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行動する理想主義者・児島幸吉

 現在の鳥取ガス株式会社の創設者・児島幸吉は、近代鳥取市の生んだ最大の「行動する理想主義者」である。つい先日、須崎俊雄氏が『格子戸を破った男』という、児島幸吉を中心に据えた著作を発表されたので、児島幸吉の全体像についてはこちらを一読することをおすすめし、本稿ではガス会社の設立(大正7年)を題材に、その先見性や行動力を端的に紹介したいと思う。

 大正7年という年は、様々な表情をもった年である。第一次世界大戦後の好景気で成金が生み出される一方、物価が急上昇し、各地で米騒動が巻き起こっている。また、大正デモクラシーの熱気が地方にも波及し、青年層の政治参加が進んだ季節でもあった。旧武士層と旧町人層がそれぞれ党派を作って対立していた鳥取市政の場にも、鳥取市愛市団(鳥取市連合青年会が改称)という超党派的・理想主義的な政治グループが形成されていた。

児島によるガス会社の設立は、このような時代状況抜きには考えられない。

 鳥取に最初にガスを持ち込んだのは関西の会社で、明治45年のことだったが、大正時代には既に休業していた。照明用・動力用として競合関係にあった電力は、明治40年に鳥取電燈株式会社によって事業化されて以来、大正11年までに鳥取県下の普及率が92%にも及ぶほど成長していたから、大正7年という時期にガス事業に手を伸ばすのは不利であった。児島は明治25年頃、鳥取に最初に発電機と電燈を持ち込んだ人物であり、電力の特性も熟知していたから、そのことはよく認識していたはずである。

 にもかかわらずガス事業に着手したのは、上述のような政治状況の中で、児島自身も参画した、電力事業の市営化運動と深く関わっている。これは、ごく大ざっぱにいえば、電力事業の収益によって市の財政状況を好転させ、市民の負担を軽減しようという運動であった。早い時期から市営による電力事業を構想していた児島だけでなく、理想主義的な青年政治家たちを中心にした市会、さらには、市民層の支持も大きかった。しかし、この運動は残念ながら失敗に終わる。事業者であった鳥取電燈株式会社の経営陣に足をすくわれ、電力事業を買収することができなかったのである。理想や目標は崇高であったが、市民運動の足腰の弱さを露呈する結果となってしまった。

 しかし、消費都市から生産工業都市に生まれ変わろうとする当時の鳥取市にとって、エネルギー供給は死活問題である。電力事業の公有化の失敗は、事業者の専横につながりかねない(実際、鳥取電燈株式会社は、大正10年代前半、当時の大政党であった政友会の党勢拡張のために電燈敷設事業を利用するようになる)。地域経済の健全な発展のためには、是非とも他の選択肢を用意しておく必要があった。

 児島幸吉は、そのことを深く理解していたが故に、あえて不振のガス事業を取得したのである。数年後には採算ペースに乗せることに成功しているから、挫折した市民運動を、形を変えて結実させたと言っても良いのではないだろうか。それは、児島幸吉の、市民としての不屈の意思のたまものであった。

そうして灯された瓦斯燈の明りは、同時代の人々に次のように評されている。

「彼の電燈の質実なる光力に比して華美にしてハイカラなる光彩を有する瓦斯の燈火が夜の店頭を飾るに相応し」(『大正の鳥取』)

佐々木孝文(インディペンデント・キュレーター/鳥取市教育委員会文化財専門員)

(2007.7 「日本海新聞」)

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