見出し画像

父の人生を変えた『一日』その75 ~臥薪嘗胆~

その75 ~臥薪嘗胆~
 茨城の一族にも相談した。元来、㈱トーメンで一生働く事になる事を結婚式で仲人の元大蔵大臣の村山達雄先生から言っていただいた経緯があった。その後、三女の婿さんが会社を経営したが親父さんと巧くいかず会社も悪くなっていき私に白羽の矢が立って無理矢理㈱トーメンをやめさせて会社を経営させそして会社が巧く廻るって行った。
そして、この期に及んでの会社分割・離縁・離婚とは一体どうなっているのだ?と茨木一族兄弟姉妹は激怒した。それなら㈱トーメンを辞めさせず茂夫の働きたかった総合商社においておけばよかった。そう言って特に上の姉貴は絶対に許さないと豪語していた。
 しかし、嘆いてばかりはいられない社員を守るためにはどうしても越えなければならない茨の道人生であると自分に言い聞かせた。そして私が40%を持つ筆頭株主であることの認識を新たにし自分に気合を入れ直した、
『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』
その人生が始まった。きっと見返してやると言う強い意志で再スタートを切ったのである。親父さんが元気ならこんな事が無かったと思うと悔しさが込み上げてきた。一族が、親父さんが意識不明で病院に
入院していた時に生命維持装置をはずそうとの話を私に持ってきた。私は激怒して断った。人間が息を吸って寿命を全うするのであり途中で会長の息を止めることは絶対に許さないと激しく言い切った。
『親父さん』とひとり呟いた。孫、初孫の元博が産まれたときのあの親父さんの最高の笑顔が夢にでてきた。アメリカに来られた時のあの嬉しさを身体満面に出していた親父さんの姿がよみがえってきた。

~倅の解釈~ 臥薪嘗胆
 私が長岡に戻り、同族の骨肉の争いが激化していき、最終的には親父についた私と会社自体が同族親戚に負けてしまった。厳しいことを記載するが、これは完全な親父の計算ミス。株式の比率を読み間違えて49%対51%で両極の株式比率で当方が負けていることを想定していなくすすめてしまった。
 まさしくどん底であった。55%あった自己資本比率は会社分割という形で一瞬にして、10%代まで落ちて行った。役員も次々と会社を辞めて行き会社はがたがた。ここから7期連続の赤字決算を連続した。良く経営が持ったと今になっては振り返って考えながら怖くなる。この7年間は地獄であった。
 生活ギリギリの給与まで下げて何とか固定費を下げようともがき苦しんだ。家族にもひもじい思いもさせてしまった。ちょうど長女が生まれるころが一番苦しかった。毎晩寝れなかった。何とか財務経営を中心とした戦略を練り、V字回復を遂げることしか考えてなかった。毎日、毎日、このことばかりを考えていた。応急処置ではまた同じことの繰り返し。徹底的に経営改善をしなくてはならなかった。営業計画、戦術、戦略も劇的に改革した。
 『すべての理由我にあり』と経営の陣頭指揮を執っている当時専務だった自分自身を戒め、徹底的に動いた。年間30万キロ車で走りまくった。営業しまくった。経営改革を徹底的に行った。
 ありがたいことに、8年目にして経常利益を上げることが出来た。この年の決算書を親父と二人で見つめながら無言でうなずいたことを覚えている。やっと軌道に乗り始めた。親父からは毎日喝を入れられた。「もっと動け」「命を懸けて動け」と。親子で必死だった。
 今振り返ると、この地獄からたんまり泥を飲んで這い上がることが出来たのは、親父と倅がお互いに絶対的に甘えなかった事であった。毎日、親子戦争であった。でも何よりも、水澤の遺伝子に流れるプラス思考の精神がいつも背中を押してくれた。楽しんで苦しんだ。
 いつまたこのような時代に突入するか分からない。日々、目をギラギラさせながら経営を楽しまないとである。365日24時間フル稼働。死んだあと休めばいい。親父との合言葉だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?