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父の人生を変えた『一日』その73 ~男の約束~

その73 ~男の約束~
 『男の約束』と言う言葉がある。
当社、創業者、会長が畳に頭をこすりつけて会社経営・会社継承をお願いしますと言われた。男2人での話であった。アメリカを忘れる。英語を捨てる。アメリカ人との友情をかなぐり捨てる。色々な事が浮かんでは消え頭をぐるぐる廻った
親父さんは三女の後継者(婿)についてあの人では会社経営は無理だと商工会議所の友人や色々な友人に言われたらしく真剣な目つきで私に懇願した。これまた運命かと思った。私が断った場合会社を諦める事も考えていたようであった。崖っぷちの決断であり私に誠に申し訳ないと何度も何度も言われた。
ライオンは茨城に続く空の流れる雲を見ていた。そして、決断した。親父さんの頼みだから何としてもかなえてやらねば男がすたるとも思った。とめどなく出てくる涙を何度も何度も振り払った。当社に帰る一年前本部長は全国のお客様にライオンは家の都合より円満退社で稼業を継承することになったと説明して頂いた。最終的に長岡かも川本館の部屋で親父さんと大江本部長との話で最終合意して円満退社が決定した。部屋から見える庭の木が未だに心に焼き付いて残っている。
 その時言った大江さんの言葉が今でも忘れられない。
『ライオン、明日から一切木材の事は忘れろ。』
『後輩が相談してきても断れ。』
『そうしないとお前は中途半端になる。』
『これからは電気業の本業のみに専念して頑張れ』
有り難い言葉であったが胸にズンと響く言葉であった。
『忘れろ』
その晩は枕の上に涙を流し続けた。振り向くな。前に行けと自分に言い聞かせて寝付けない夜であったと記憶する。


~倅の解釈~
 私がちょうど高校1年生の時、アメリカに留学中、親父は人生の大きなターニングポイントを迎えていた。この人生の分岐点は私自身にも大きな影響となる分岐点であった。
 親父とは話し合ったことは無かったが、親父と私の間では一つだけ明確に取り決めしていたことがあった。それは親父が水澤電機を継いだとしても私自身は自由な道を進むということ。どちらかというと、親父からそう言われていた。
 この後押しがあったからこそ、アメリカでの単身留学、家出、一人暮らしと激動の4年間を生き抜くことが出来た。親父がトーメンで役員になる夢を捨てて、母の実家である水澤電機を継いでいる時、私自身はアメリカでもがいていた。
 15歳でアメリカ大使館に出向き、形の演武と瓦割り演武を行い単独で留学のF-1ビザを獲得。これが両親からの留学への条件だった。二人ともこれを私が成し遂げると思ってもいなかった。中学を途中卒業するような形で渡米。空手道の師範と先生(ご夫婦)の自宅にホームステイの形で新たな人生のスタート。凄まじいアメリカ人生の開幕であった。ホストファミリーと言うよりは空手の師範宅に居候という形。凄まじい生活であった。早朝5時に起きて、勉強し、7時には学校へ向かい、15時に学校から戻るとそのまま車で空手の道場へ向かい指導。夜の23時まで空手の指導と道場の清掃、片付け。約40分かけて車で家へ戻り、2時ぐらいまで勉強。平均3時間の睡眠。
 ここまでに勉強にこだわった理由は、A(最高評価)以下を1科目でも出したら強制送還と言われていて、命を懸けて勉強していた。この2年間で勉強したことが今も役に立っている。
 2年間この生活は続いたが、さすがに思春期。彼女が出来たり、空手の指導に伴い費用がまったく頂けなかったり、両親からの生活費が一切私には回ってこなかったりと生活のリズムと優先事項が少しづつ変わってきて、どうしてもホストファミリー、空手の師範、先生の自宅での生活に限界を感じていた。ビザの取得方法は完璧に分かっており、この生活から脱出するためには黙って出るしかないと思い、両親にも相談したが、我慢して、そこで生活しろとのこと。
 我慢できず、家出と言う形で新たな人生のスタート。車に積めるだけの荷物を積み込み、ロサンゼルスへ向けて出発。ロスで日本料理屋にてアルバイトを開始して、ボロアパートを借りて生活スタート。現地の高校への入学段取りも進めていた。新たな人生のスタートにバタバタとドキドキな日々を過ごしていた。そこにシアトルの友人から一本の電話。彼にしか電話番号は教えていなかった。
 「ご両親がお前を探しにシアトルに来てるぞ。会ってやれ」と。
 戻ったら、親父とお袋にボコボコにされて日本へ強制的に戻されるというんではないかと、どうしても戻れなかった。2週間ほど、両親はシアトルで私を探していた。さすがに友人からいい加減にしろと連絡が入り、電話で親父とお袋と話しした。とにかく殴らない、強制送還しないという条件で戻った。長い道のりを一人走って。
 シアトルに到着して、両親が待つホテルの部屋にて何を細かく話したかは忘れたが親父からはボコボコにされて、ただし、親父の判断でアメリカに残り2年間、高校を卒業するまで残っていいとの判断が下されて。これも条件付き。全て自分でやること。両親からの援助は家賃のみ。
 そこからまだ成人となっていない一人暮らしが始まった。自由という素晴らしいものを手に入れた青年は様々な困難と残りの2年間、経験することとなる。
 まさしくこの時期、親父も人生のターニングポイントで涙を流していた。水澤電機の先代と『男の約束』を交わしていた。

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