レイユン表紙

ニューロンの速度より遅い会話◆本文サンプル

「ニューロンの速度より遅い会話」収録の【美と愛の話】【花と星の話】【舞と詞の話】【私と俺の話】より、前半二本のサンプルです。


【美と愛の話】 

「そのフード、取って」

  唐突な命令に影はきょとんとし、それから常時かぶっている装束のフードを後ろに払った。さしたる手入れもされていない黒髪がばさりと散らばる。これがどうしたかと尋ねようとして、じっとこちらを見つめる皇女の真剣な顔に、影は思わず言葉を詰まらせた。そのまましばし互いに沈黙したのち、おもむろに皇女は口を開いた。 

「痛くないの?」

  何のことか理解するのに、やや時間を要した。皇女の視線から、やっとそれが己の頭部にある醜い傷跡を指して言っているのだと気が付いた。髪と皮膚を奪って刻まれた傷は、フードをかぶっている間はほとんど目立たない。隠すつもりでフードを常用しているわけではなく、見られてどうということもないのだが、あまりにまっすぐな瞳の前にさらされて、影は何か落ち着かない気持ちになった。それは、相手が皇女であるからかもしれないが。 

「痛くはない。傷があることさえ、普段は忘れているくらいだ」 

「そうなんだ。……ねぇ、触ってもいい?」

 「……ナンデ?」

 「触りたいから。でも、嫌なことはしたくない」

  困惑して皇女を見ても、相変わらずその顔は真面目そのもので、残念ながら影には断りようがなかった。好きにしろと言うと皇女はニコっと笑い、シツレイします、と白い手を伸ばして影の髪に触れた。影は嫌がらなかったが、少し居心地悪そうに目をそらした。人に触れられることに慣れていないのかもしれない、と皇女は思った。

  ケーブルヘアではない、細く量の多い黒髪が指に絡む。傷跡はいびつな感触で、いくらニンジャといえど、放っておくままでは綺麗な皮膚に戻ることもなさそうだった。優しく指先で撫ぜながら皇女は再び問う。影は淡々と答える。 

「治したいとか思わない?」

 「動くのに何も支障はないし、今更、見た目を気にするつもりもない」 

「興味がないんだ」

 「そうなるな」

 影にとって、自分の肉体がどれほど傷ついているかは問題ではなく、自分の精神が確固であればそれでよかった。だが皇女にとって、肉体の造形と精神はあまりにも深く結びついている。もしも自身にこんな傷がついたら、すぐに治したいと思うだろうと皇女は考えた。言う必要は感じなかった。だから代わりに別のことを言った。

 「この傷、カワイイではないけど、クールだと思うよ」 

「それは……ドーモ」

  影は困ったように小さく笑った。そうして、己を撫で続ける皇女の腕を見上げ、輝く皇女のサイバネアイを見た。彼女が選び取り、彼女の父が残した、隙の無いサイバーゴス姿を目に焼き付けた。

 「ツァレーヴナはカワイイなんだな」

 「そう。私はカワイイ。今までも、これからも、ずっと」

  二色のケーブルヘアも、バーコード状の眉も、鮮やかに肌を飾るファッションも、自身を世界に繋ぎ止めたテクノロジーも。己を形作るもののすべてに皇女は誇りを持っている。それは誰にも侵すことのできない、神聖な誓いでもある。

  不敵に笑みを深めて見せると、影は笑い返しながらも何か言いたげだった。皇女は影の頭に置いていた手を下ろし、青白く不健康そうなその頬を、きゅっと指で刺すように押した。

 「文句がありそうな顔してる」

 「そんなことはない! ただ……」

  一瞬の逡巡の後、影は先刻の皇女に負けず劣らず真剣な表情をした。自分の頬を突く皇女の指を、そっと手で包んで止め、言った。

 「カワイイより、美しいと表現する方が、やはり俺にはしっくりくるんだ」

  墨を溶かした氷水のように、影の瞳は静かに濁っている。その底に燃える火が見えた気がして、今度は皇女が目線を外す番だった。影は戸惑ったらしかった。

 「気に障ったなら……」 

「そんなんじゃないけど!」

  ぴしゃりと言えば影はますます狼狽え、それが逆に皇女を冷静にさせた。バカ、と心で呟いてから、照れをごまかすように相手の頬を軽くつねってやった。黙っていればクールに見える影が、動揺したままの顔で頬を引っ張られているのは、ちょっとカワイイかもしれないと皇女は思った。

 

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【花と星の話】

 小さな丸缶にはガーリィな花のイラストが色とりどりのインクで描かれている。まったく彼らしくない、と思ったのは本人も同じのようだった。皇女に缶を手渡した影は視線をさまよわせ、自信のなさそうな声で「良ければもらってくれ」と缶を手で示した。

 「開けていいの?」

 「勿論」

  円周上に巻かれたテープを剥がし、蓋を外す。赤、青、緑、オレンジ、ピンク、白。光を受けて輝くように見える半透明の砂糖菓子は、花というより星のようだった。一粒つまみあげ、星と影とを見比べる。

 「食べていいの?」 

「勿論」

  自分にくれると言っているのだから、そんなこと聞かなくても分かっているのだが。緊張の面持ちでこちらを窺う影がなんだか面白くて、ついわざとらしいことを言ってしまった。

  つまんだ星を舌に乗せ、一思いに噛み砕く。化学薬品で合成された暴力的な甘さではない、奥ゆかしい甘さがふわりと口に広がって、ほのかな香りが鼻に抜けた。粒子はすぐに溶けて消え、ほんの少しざらついた感触をあとに残した。 

「金平糖なんて、久しぶりに食べた。アリガト」

  美味しいと伝えるために笑いかければ、ようやく影は肩の荷を下ろしたように脱力した。食べなよと皇女が缶を差し出す。影は控えめに押し返したが、皇女が引かないことを悟ると、おずおずと指を伸ばして白と青の星を一粒ずつ取った。

 「ツァレーヴナの色だな」 

「だったら黒か、せめてグレーがないと、フェアじゃないね」

 「……俺の色はいいんだ」

  影はふたつの星を口に放りこみ、フードを深くかぶりなおした。照れているようにも見えたので、これまたわざとらしくしなを作り「私、食べられちゃった」と囁いたところ、影は盛大に咳き込んだ。皇女は声をあげて笑った。


  二人並んで小さな星を消費しながら、皇女は影に尋ねた。どうして似合わぬ砂糖菓子など渡してきたのかと。缶の蓋を弄んでいた手を止め、影は皇女を見つめた。

 「そうだ、似合わないだろう。だがこれでも悩んだんだ。俺は女性への接し方が、あまり、……スマートではない、から」 

「うん」 

「女性の多くは甘いものが好きなのだろう。それを買った店も、女性の方が客としては実際多いようで」 

「うん」

  先程までの笑みを消し、皇女は無表情に星をがりりと砕いた。隣の影を見もしない。影はぐっと口を引き結び、一度目をそらした。それから改めて皇女を見た。皇女の左目に浮かび上がる三つの点が軽快に回転し、首を動かさぬまま横目で網膜に影を映した。

 「……お前に、喜んでもらいたかった」 

「うん」 

「喜んでくれた、か?」

 「うん。喜んだ。だから今度は、最初からそれだけ言って。私のためにしてくれたのに、他の『女性』がどうとか、ナンセンスだから」

  そう言って、皇女は今度こそ影にまっすぐ顔を向けた。柔らかなオモチシリコンの頬は少し膨らまされていて、自分がどれほど無粋なことを言ったのか、影にも一目で理解できた。ああ違う、そんな顔をさせたかったわけではない。笑ってほしかった、幸福でいてほしかった。影が皇女に願うのはただそれだけだ。

  言葉を続けようと開けた口に、素早く何かが放り込まれた。反射的に口を閉じた勢いのまま、歯に挟まれたそれはあっけなく砕かれて甘味を振り撒く。あるいはその一連の行為自体、何らかの甘さを含んでいてもよさそうなものだったが、影に流れ星を飛ばした皇女の表情はまるで悪童めいていた。 

「私に喜んでほしいなら、私のことだけ考えててくれたら、それで問題ないでしょ」

  影は数度瞬きをしてから、口内に残る星屑を飲み込んだ。皇女のご機嫌は思ったよりもよろしいようだった。

 「情熱的な」

 「良い事だよね」 

「そうだろうとも」

  缶は既にずいぶんと軽くなっていた。もういくらもしないうちに、全ての星が二人の内に収まることだろう。棘すら魅力的な唯一無二の花に、さて次は何を贈るべきかと考えながら、影は手にしたままだった缶の蓋に目線をやった。似合わない真似も、たまには悪くない。 




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