文庫表紙

ルック・アット・ミー、マイ・マスター!!◆本文サンプル#1

ブラックドラゴン×シャドウウィーヴ小説本のサンプルです。

にんかくでは文庫サイズ(本文164P)での頒布となります。



# 1 【リアル・ドリーム】 


  幸福だった。

  ここには自分と相手しかいない。この場どころか、世界中にたった二人だけの心地すらする。夜の闇を全て抱え込んだかのような瞳は、まっすぐに自分を向いていて、自分は臆することなくそれを見つめ返す。その闇にいっそ飲み込まれてしまいたい。夜空に溶けて、彼とひとつになるのだ。それはとても良い考えに思えた。

 手が差し出される。躊躇わず自分の手を重ねる。引き寄せられる。獰猛な爪が己を傷つけることなどありはせず、やわらかな綿でくるむように抱きしめられる。すべてが愛しさで塗りつぶされて、何も考えられなくなってしまう。彼は子供だと笑うだろうか、それとも初心にすぎると呆れるだろうか。なんだってよかった。彼の腕の中にいる事実が分かっていれば、それ以上のことは必要ではなかったし、きっと、向こうも同じ気持ちだった。メンポで覆われた口元が見えなくても、今、彼は微笑んでいると理解できた。

 「――――」

 名を、呼ばれたのだと思う。よく聞こえなかったのが悲しくて、腕に抱かれながら顔を寄せた。もっと呼んでほしい。自分が誰のものであるか、貴方が誰を求めているのか、ニューロンに強く刻んでほしい。タトゥーめいて取れなくなっても構わないから、自分に貴方を残してほしい。

 たまらなくなって、口を開いた。唯一無二の相手のことを、今度は自分が呼ぶために。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 


 『起床重点! 起床重点な!』

 まず目に入ったのは、光と合成音声を振りまきながら飛び回る小さな機械だった。それから見慣れた天井。全身にフートンのぬくもりが感じられる。

 ザイバツ・シャドーギルドには下位階級用の住居施設が存在する。主にニュービー・アプレンティスのためにある、いわゆる寮のようなものだ。入居は強制ではないが、小さいながらも一人ずつ個室が与えられ、家賃は格安、というかほぼ無償提供という条件に飛びつく者は多い。いつも通りの自室で目を覚ましたシャドウウィーヴもまた、利用者の一人であった。 

「…………」

 シャドウウィーヴはしばらくフートンの中で天井を眺めた。それから黙って上半身を起こし、チカチカと瞬くモーターチビを引っ掴んでスイッチを切ってから、再びフートンに倒れ込んだ。放り出されたモーターチビが寂しくタタミに落ちた。

 仰向けのまま微動だにせず、天井観察に戻る。頭は目まぐるしい勢いで回転していて、今しがた見た夢の処理でクラッシュ寸前だった。

 出演者が魅惑的な女性であったなら、まだ素直に自分の邪念を責めることもできただろう。パープルタコ=サンにアブナイ遊びを仕掛けられる夢なんてものの方が、不本意ではあるにしろ、若さゆえの劣情と断じられる分ずっとマシだ。

 だが、そうではない。ティーンエイジの少女向けコミックのような、無駄に甘く華やかで、優しすぎる夢。その中心で自分の手を引いたのは、他の誰でもない、心から尊敬するマスター・ブラックドラゴンの姿だったのだから。

 夢の中の自分が満ち足りていたことを、シャドウウィーヴは覚えていた。それがまた己を苛んだ。自分が師に向けるのは圧倒的な畏敬であり、それはいっそ宗教じみてすらいたが、誓ってそれ以外の感情は存在していない。導き教え諭してくれる師に対して、ふしだらな思いを抱くなど言語道断である。そのはずだ。そのはずなのに。

 そこまで考えが至ってから、シャドウウィーヴはがばりと起き上がり、フートンを跳ねのけて絶叫した。

「そもそも同性だろうッ!?」

 幸運にも、引き裂くような彼の叫びを聞いたのは、光を失って転がる健気なドロイドだけだった。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 


 共同の洗面所はたまたま無人であり、心置きなく全力で洗顔を行うことができた。洗うというより最早叩きつける勢いで、飛沫を跳ねさせながら冷水を顔に浴びる。忘れようと努める程に夢の光景がフラッシュバックして、蛇口に頭をぶつけそうになった。足元のタイルまで水に濡れてしまっても、気にしていられなかった。

 無意味な夢だ、記憶の配線が少しおかしかっただけだ、あれが自分の望みであるわけがない。胸の内でひたすらに繰り返し、首にかけた黒いテヌギー・タオルで乱暴に顔を拭く。黒。それはかの人を象徴する色だ。シャドウウィーヴは両頬を思い切り張った。

「オハヨ!」

 朗らかなアイサツと共にばしりと背中を叩かれ、突然のことに内臓がひっくり返りそうになった。振り向くと、同じようにテヌギーを首から下げたソルヴェントが、部屋着のままで立っていた。所属は違えど話しやすい、貴重なアプレンティス仲間だ。胸まである砂色の髪を無造作に下ろし、片手には歯ブラシが突っ込まれたチャワンを持っている。

 見知った顔に少し気が緩み、オハヨ、と返した。彼は隣の洗面台にチャワンを置き、髪をまとめ始めた。鏡を見ながら気さくに話しかけてくる。

「朝早いんだな」

「……目が覚めてしまって。そっちは」 

「今日は任務があるんだ、マスターと」 

 マスター、と聞いた瞬間にブラックドラゴンの顔が浮かんだのを慌ててかき消した。彼は己のメンターであり、マスター階位のザイバツシテンノであり、懲罰騎士という特別階級だ。必要以上に親しくしようとすることさえ分不相応だというのに、まさか師弟以外の関係を望むなんて。それも、恋仲を!

 同性同士でそういった関係になるのはマイノリティとされるが、パープルタコは女性相手でもあの調子だと言うし、マスター階位には互いに男でありながら深くネンゴロの二人組がいるらしいと聞いたことがある。好きになってしまえば性別など関係ないのかもしれない。しかし、自分がそうであるとは、シャドウウィーヴにはとても認め切れなかった。

(あの夢は何かの間違いで、いや、間違いならどうして一笑に付すことができていないのか……。自分は、何を考えている……? マスターと、どう……) 

「おい、大丈夫か?」

 遠くに飛んでいた意識が引き戻される。髪を結い終えたソルヴェントが怪訝そうにこちらを見ていた。

 さっと血の気が引く音がする。よもや、口に出してなどいないだろうか? 

「寝ぼけてるのか、シャドウウィーヴ=サン。目が虚ろだったぞ」 

「あ、ああ……そうかもな」 

「爽快丸、気に入ったんだったっけ。一粒食ったらどうだ? あれは眠い時も実際効く」

 人差指をぴこぴこと動かして笑うソルヴェントには、それ以上不審がる様子はない。胸を撫で下ろし、ぎこちなく笑みを返す。大丈夫だ。何も気づかれていない。

 適当に切り上げて部屋に戻ろうとしたところで、軽くソルヴェントから投げられた「そういえば」という言葉に足を止めざるを得なくなった。

「マスターと言えば、シャドウウィーヴ=サンのマスターはシテンノのブラックドラゴン=サンだったよな」

 現在最も触れたくない話題にピンポイントで切り込んでこられ、理不尽な怒りが湧き上がりそうになる。それをなんとか抑えて曖昧に頷いた。ここで部屋に戻るのはあまりにも不自然だ。話しかけられては無視をするわけにもいかず、何よりソルヴェントは自分にとって数少ない、かろうじて友人と呼べそうな人物である。

 彼に罪はない。懺悔すべき罪人がいるとしたら、それは自分を置いて他に居ないのだから。 

「あの人はスゴイよな! カラテは強いし、指導は熱心だし……いや、俺は直接関わりがないけど。良い上司だってよく聞くから」

 ソルヴェントは屈託のない笑顔で続けた。それを聞いて、何故か心臓のあたりが小さく軋んだ。応えようとして、自分の気が随分とささくれ立っていることを知った。

 いつもなら、師が褒められたら大いに頷いて、そうだろう、本当にスゴイ人なんだ、と喜び勇んで同意しただろうに。師が良く言われるのは自分のことのように嬉しかった。彼を尊敬する一人として、誇らしいことだった。なのにどうして。嫉妬? まさか!

(嫉妬なんかしない。俺のマスターは素晴らしい人だ。未熟な自分と比べたりなんか、しない……) 

 浮かんだ言葉にハッとした。気付いてしまった自己嫌悪が襲ってくる。きょとんとしたソルヴェントが見ている。精いっぱい何でもないふうを装い、口を開いた。 

「……ああ、実際とても良い、有難い師匠だ」 

「やっぱりそうなんだな!」 

「俺は部屋に戻るよ。……アー、任務、ガンバッテ」 

「アリガト!」 

 軽く手を振って洗面所を後にする。心臓はずきずきと重く痛み、吐きそうなほどの眩暈が止まらない。頭を振って否定しても、素直すぎる自分の心は非情に現実を突きつけてくる。

 自分の師を褒められたのに、手放しで受け入れられなかったのは何故か。無意識下に沈んでいた、己の本当の想いは何だったのか。あの夢は。この熱は。ああマスター、貴方は。 

(『俺の』、マスター……)

 ふらふらと自室にたどり着き、着替えてすぐさまトレーニングルームへ向かう。朝食は入る気がしなかった。今はとにかく体を動かして、少しでも発散したかった。 

 目を覚ましてしまった狂おしい独占欲が、暴れ始めるその前に。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 


 「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」

 人気のない共用トレーニングルームの片隅で、カラテシャウトが空気を震わせる。両手を使った連続チョップからの蹴りを木人に叩き込み、一度バック転で距離をとってからクナイ・ダートを投擲する。頭部と胴体に記された的の中心から、やや離れた位置に二本のそれぞれが刺さって小気味いい音を立てた。

 とうに日は昇りきり、汗が全身をゆるやかに伝う。爽やかな朝の鍛錬と言えば聞こえはいいが、実際のところ、心境は穏やかではなかった。今朝の夢、そして先程の会話で、己の師に対する感情を改めて考えさせられてしまったからだ。

 ソルヴェントがブラックドラゴンのことを口にした時、感じた痛みは子供じみた独占欲そのものだった。自分だけのマスターなのに、と。まるで彼と自分二人だけの世界を切望しているかのようで、それこそ夢に見たことではないかと思うと、いっそ舌を噛み切りたくなる。苛立ち紛れに投げた追加のダートはさっきよりも外側に突き刺さり、無意識に舌打ちをした。 

 シャドウウィーヴは未だ激しい混乱の中にあったが、師を強く慕う想いが本物であることだけは確信があった。あの日、暗黒に満ちた世界から自分を引き上げて、より濃い闇へと連れて行ってくれた恩人。その先に待つ未来が血塗られた果てのものだとしても、彼と共に歩む道なら怖くない。 

 盲目的な敬愛に、いつしか恋慕が混ざっていたとでもいうのだろうか。まるでそのように思えない、というわけでは、残念ながらない。師が自分を見てくれることが、自分を求めてくれることが、本当に嬉しくてたまらないのだ。そこに、他の人を見てほしくない、なんて気持ちを上乗せしたらどうだろう。それは限りなく、幼い恋心に近いのではないだろうか? 

(馬鹿なことを考えるな! 思うだけでも罪と知れ!) 

 頭を打ち付けたくなる衝動に耐える。物言わぬ木人にどれほど打撃を食らわせても悶々とする気持ちは晴れず、カラテは次第に精度を欠いて、疲労として身に跳ね返ってくるばかりだった。 

 荒く息をしながら刺さった武器を抜き、順番にベルトに収納し直す。最後の一本に手をかけて、ぼんやりと、圧倒的なカラテの持ち主である師を脳裏に浮かべた。彼ならば、トレーニングであっても急所を外すようなブザマは晒すまい。自分はあまりにも未熟だ。彼の隣に立つどころか、背中を追いかける資格さえあるのか怪しい。 

 どこまでも落ちていきそうな思考にストップをかけるように、ぐっと一息にダートを引き抜いた、その時だった。 

「集中が足りないな」 

「アイエエエ!?」 

 後ろから聞こえた声に、心臓が飛び出るかと思った。今日は朝から相当内臓に負担をかけている。 

 今のシャドウウィーヴの全てであると言っても過言ではない、ブラックドラゴン師父がそこにいた。全身黒のニンジャ装束にメンポ、深い深い黒の瞳。これは夢ではない、現実だ。 

 瞬時に姿勢を正す。運動のためではない冷汗が溢れた。一体いつから見られて、いや、何故自分は気付かなかったのか。挙動不審な弟子を見下ろし、師は淡々と続ける。 

「身のこなしは多少マシになったが、この距離で急所を外していては話にならん。一撃一撃確実に仕留めるつもりでやれ」

 「は、ハイ! マスター!」 

 とても顔を見ていられなくて、微妙に視線をずらしながらも大声で返事をする。意外にも師は叱るような物言いをせず、分かればいいと返しただけだった。唾を飲み込み、おずおずと話しかける。 

「マスター、俺をお呼びでしたか」 

「通りがかりだ。お前の声が聞こえたから様子を見に来た」 

 淡々としたその言葉だけでも、自分はこの人に目をかけてもらっているのだという実感が湧く。急いで頭を下げて礼を述べ、頬が緩むのを誤魔化した。 

 なんとか表情を取り繕って顔を上げると、師は既にこちらから目線を外し、取り出したIRC端末の画面を確認していた。手早く操作を行ってからそれを懐にしまい、自分に向き直る。 

「朝食はとったか」

 「いいえ、まだです」 

「なら、しばらく食えないと思え。これから懲罰騎士としての任務に向かう。同行しろ」 

「ヨロコンデー!」 

 余計な考えを振り払うべく必死にトレーニングに打ち込んだせいで、既に多少体力が削られている。だが行動に支障が出るほどではない。スタミナが無い方とはいえ、ニンジャはニンジャである。何より、師の期待を裏切るわけにはいかないという思いが、シャドウウィーヴを奮い立たせた。 

 身を翻した師の後を追ってトレーニングルームを飛び出す。広い背中が前に見える。思わず手を伸ばしそうになって、止めた。 

 自分はまだ、彼に届かない。もしかしたら永遠に。 


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 


 今回の任務は、よくある野良ニンジャの始末だった。ソウル憑依からさして時間がたっていない、あるいは何らかの利用価値があると思われるニンジャならば、ザイバツに引き込めるか検討する。ニンジャとしてある程度派手な騒ぎを起こしている輩であれば、容赦なく叩き潰す。今回は後者だ。最近キョートでニュースになっている連続通り魔事件の犯人は、信念もなくモータルを襲って楽しむケチなサンシタニンジャの所業であった。 

 多くの場合はまずブラックドラゴンが直接戦い、シャドウウィーヴは少し離れたところからイクサを観察して学ぶ。師の指示があった場合や状況判断により、クナイ・ダートで支援を行うというのが師弟の基本姿勢である。ずば抜けたカラテを持つ師とサポートに長けた弟子は実際良い組み合わせで、自分のジツが師の助けになっていることはシャドウウィーヴの誇りだった。 

 当然、今回もいつものスタンスで任務に臨んでいた。いつもと違ったのは、例えば弟子の心が乱れていたことだったり、相手が意外と抜け目のないサンシタだったりしたことだろう。 

 ブラックドラゴンに追い詰められ、そのニンジャが放ったいくつかのスリケンは、てんで的外れで苦し紛れに見えた。一瞬の油断が死を招くと痛いほど分かっていたはずなのに、この時点で弟子はとうに師の勝利を確信していたし、師の姿を目で追うあまりに他の事象に気が向いていなかった。それが愚かだった。 

「……! イヤーッ!」 

 身を伏せて横に飛ぶ。コンマ数秒前までシャドウウィーヴの眉間があった位置を、スリケンが貫いていった。 

 だがスリケンは一枚ではない。敵は最初から、気楽そうに傍観しているこの若造を、明確な殺意でもって狙っていたのだ。もう自分は助からないと悟り、最後に一泡吹かせようと思ったのかもしれない。何にせよ、迎撃には間に合わなかった。 

「グワーッ!」 

「サヨナラ!」

  シャドウウィーヴの右上腕にスリケンが刺さるのと、野良ニンジャが爆発四散を遂げるのは同時だった。ひとかけらの感慨もなくカイシャクを行ったブラックドラゴンは、血濡れの腕を押さえる弟子を振り返った。感情は読み取れない。シャドウウィーヴは己のウカツを呪い、恥じ、そして蔑視を恐れた。師に見限られることこそが自分にとって最大の恐怖だった。 

 細い腕にじりじりと血が伝う。師は座れ、と手で示し、弟子はそれに従った。 

「気を抜いた途端に死ぬと思え。次もスリケンひとつで済むなんて保障はどこにもない」 

「ハイ」 

「常に全方向を警戒しろ、感覚を研ぎ澄ませ。できるできないは聞いていない、やれ! 分かったか!」 

「ハイ、マスター!」 

 強い叱咤に背を伸ばして答えると、師は頷いて自らも膝を折った。包帯を取り出し、手際よく応急手当を始める。顔が少し近付いただけで、シャドウウィーヴの心は激しく揺らいだ。師はニンジャの自分を求めてくれている。大切な戦力として、将来性に投資をしてくれている。それだけで身に余る光栄なのに、やはりこんな感情はおこがましいのではないだろうか。 

 人間性を捨てろ。幾度となく師に言われた言葉を思い出す。身を引きちぎられそうなほどに切なく、それでいてどこかあたたかなこの想いが、人らしさの証だというのなら――蓋をして鍵をかけて、奥底にしまい込んでしまった方がいい。今ならまだ、敬愛を勘違いしたと言い訳できる。夢はニューロンの記憶が見せた単なる幻影で、感じた独占欲は幼い子が親に対して持つようなものだ。出会ってから短期間で急激に高まった好意と尊敬が、うっかりそういったものに結びついてしまっただけだ。 

 複雑に絡み合った糸の隙間から、ほたり、と一滴の水が落ちた。雫は波紋を広げ、脆弱な精神を揺るがし、崩そうとしてくる。情けなさに歯を食いしばっても遅かった。 

 止血と最低限の処置を終えたブラックドラゴンの手が、す、とシャドウウィーヴの頬に触れた。指先についた血が透明な涙と混ざり合い、溶けた。 

「……泣くほどの痛みか? まさか、何らかの毒が」 

「ッ……ちがい、ます……マスター……」 

 初めてできた、尊敬する人。共に歩みたいと思った人。 

 その人を、自ら穢しているようで。 

「いっ……至らない弟子で、申し訳、ありません……」 

 純粋な弟子としてすら存在できないなら、もう自分には何が残っているのか分からない。流れる涙は熱そのものだった。一粒一粒が落ちて爆ぜるにつれ、心のどこかが急速に冷えていく気がした。 

 終わりにしよう。気の迷いだと断じて、しっかりと『師弟』として向き合おう。そう決意して拳を握り締めた。 


 直後、師の拳が飛んできた。


  張り詰めた空気を裂いて、シャドウウィーヴの体は棒切れめいて吹き飛んだ。首が変な音を立てた。手加減はされているはずだが、今しがた怪我をした右腕の何倍も痛い。回る世界の中で、ゆらりと立ち上がる師を認める。全身に纏うアトモスフィアが突き刺さってくるように感じられた。 

「わざわざ言われなくとも知っている、たわけ!」 

 呆然とへたり込む自分へ、容赦のない怒号が降り注ぐ。びりびりと肌が震える。厳しい発言は常であれども、本気で立腹している師を見ることは、そういえばあまりなかったなとどこか他人事のように思った。 

「弟子が至らないのは当然だ! 至らない未熟者を成長させるのが俺の役目だ! そんな当たり前のことを嘆く暇があるなら、少しでも鍛錬を積め!」 

 そこでブラックドラゴンは言葉を切り、少しだけ声を和らげた。怒りが収まったというよりは、一字一句、はっきり刻み込もうとするようだった。 

 涙はもう落ちてこない。心臓がどくどくする。時間が止まったような錯覚に陥り、その中で師の声だけがクリアに響く。 

「もっと貪欲になれ。強くなるために俺を利用しろ。そして未来に食らいついてみせろ、俺と共に」 

 脳を直接殴られた感覚がした。やっと定まった視界は良好、思考回路はオールグリーン。世界がひどく単純に見える。舌をもつれさせながら、勇気をかき集めて吐き出した。 

「俺は……俺は、貴方と共にありたい」

  不格好な言葉だったが、師は少し笑ったようだった。自分に背を向け、歩き出す。よろめきながら立ち上がって頭を振り、その後に続いた。前から声が飛んでくる。凛とした声が。己を導く、曇りなき声が。 

「もう二度と、分かり切ったことを口にするな。時間の無駄だ」 

「…………ハイ!」

  自然と駆け足になる。時間が再び巡り出し、失った熱が戻ってきていた。それは絶望にも似ていたが、不思議と清々しい心地だった。 


  もう言い訳も誤魔化しも、諦めなくてはならない。 

(貴方を愛しています、マスター) 

 スタートの合図は鳴らされてしまったのだ。 

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