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【オリジナル短編】さよならスタンドバイミー

友人主催の性癖シャッフルアンソロに寄稿したものです。主催は「本を作ったあとの原稿は好きにしていい」と言ってくれており、せっかくなので公開することにしました。私が引いたお題は、

「大人びた少年と平凡な少年(小5から中2が特に良い)が二人で大人に近づこうとする」

です。ぴん、とこられましたらごゆるりとどうぞ。

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さよならスタンドバイミー

 食べて遊んで寝る以外のことをしていなくても進級はできるので、義務教育というのは優しいなと思う。母さんは「中学生になったらそんなことじゃダメよ。勉強だってぐっと難しくなるんだから」なんて、口をきゅっと尖らせて僕に言うけど、小学五年生になってまだ半年もたたないうちから中学の話なんてされても困ってしまう。今の僕にとってはまだ見ぬ未来のことよりも、今このときの友達や宿題や給食や体育や、そういったものの方が大切なのだ。学校の帰り、体操服の入った袋を蹴りながら僕がそうこぼすと、七島はごもっともだと言ってくすくす笑った。
「廣瀬は素直だね」
「馬鹿にされてるような気がするんだけど」
「してない、してない」
 そしてまた笑うから、やっぱり馬鹿にされてるように思う。でも今日は、喧嘩をするにはあまりに不似合いな陽気だったから、僕は七島を許すことにした。そもそも僕らは喧嘩なんてしたことがない。梅雨が明けた初夏の空は、どこまでも続く深い青にきれぎれの雲が浮かんでいて、色画用紙に白い絵の具をこすり付けたようだった。熱を増し始める六月の空気を、時折涼しい風がさらっていった。
 ちょうど二年前、三年生の夏に、七島は僕らの学校に転校してきた。僕より少し背が低くて、僕より少し痩せていて、僕より少し髪の毛の色が明るい。僕とは逆に体育より国語が好きで、休み時間は校庭でサッカーをするよりも教室で本を読んでいることが多い。家が近所だと分かってから、時々一緒に登下校するようになった。七島は難しいことをよく知っていてすごいと思うけど、同い年なのにお兄さんぶるようなことをするのはちょっと腹が立つ。それでも基本的には、それなりに仲の良い間柄だった。
「怒らないでよ」
「怒ってないよ」
 怒っていないことなんて見て分かるだろうに、七島はわざわざ言ってくる。僕が肯定すると楽しげにニコニコするので、変な奴、と思ったままを口にすると「本当に素直だなぁ!」と肩を叩かれた。
 何か言い返そうとしたところで、踏切に差し掛かった。遮断機は下りている。僕らは立ち止まり、うるさいカンカン音を聞きながら電車が過ぎるのを待った。
 それはいつもの日常のことで、何も特別なイベントではないのに、今日の七島はどうしてかいつもと違っていた。まるで電車を初めて見たかのように、こちらへ向かってくる車両をじっと凝視していた。僕らの目の前を電車が通り過ぎるとき、ごう、と風が巻き起こり、茶色っぽい七島の髪がぶわりと揺れるのを、僕は見ていた。七島はずっと電車を見ていた。
 電車が行ってしまってから、遮断機の上がった踏切を渡った。歩きながら、どうかしたのかと尋ねるつもりだったけど、七島は踏切を越えたところで立ち止まってしまった。さっき、夢中になって電車を眺めていた瞳が、今度は僕にまっすぐ向いていた。目の色も僕より少し明るいんだな、と初めて気が付いた。
「廣瀬、僕と冒険しない?」
「冒険?」
 どちらかというと屋内で過ごすイメージの強い七島から、そんな単語が出てくるとは思わなかった。たった漢字二文字のその言葉は、僕という男子の心をくすぐるのに十分だった。真剣な表情をしていた七島は、目を細めて少しだけ笑顔になった。
「うん、冒険。僕と廣瀬で、電車に乗って、遠くに行くんだ。僕らだけで」
「すごい。大人と一緒じゃないってこと?」
「そう。僕らを知っている人が誰もいないようなところに行って、おいしいものを食べて、二人でたくさんおしゃべりをして、好きなことをして遊ぶんだ。どうかな」
 そのとてもとても魅力的なお誘いに、僕は七島の様子がおかしかったことなんて忘れて、満面の笑みになってしまっていた。僕らは都会の子たちみたいに電車で通学することがないから、電車を使うほどの距離を移動するというのは、未知の世界に旅立つようなものだ。自分たちだけで電車に乗って遠くへ行くなんて、考えただけでずっと大人に近づく気がした。僕は少し前のめりになって七島に応えた。
「すごく楽しそう! いつ行く? 次の日曜日? それとも夏休み?」
 今から母さんに頼めばなんとかなるだろう。七島も一緒だと言えば、きっと許可を出してくれるはずだ。礼儀正しくて勉強ができるから、七島は母さんに気に入られている。
 はしゃぎ始めた僕の手を七島はぎゅっと掴み、歩き出した。帰り道とは違う方向に。
「今からだよ」

 売店も柵も見当たらない、小さな駅員室があるだけの最寄駅に連れてこられるその時まで、僕は七島が冗談を言ったのだと思っていた。切符売り場の前で七島はリュックから四角い財布を取り出し、中身を確認してから、僕にも同じことをするよう促した。
「食事の分も残しておかないといけないから、切符代にお金を全部使うわけにはいかないけど。行けるところまで行こう」
「……本当に今から行くつもり?」
「そう言っただろ。嫌?」
「勝手に電車なんか乗ったってわかったら、お母さんに怒られるんじゃないかな。帰りも遅くなったらいけないし」
 僕はごく当たり前のことを言ったつもりだったのに、七島を困らせてしまったらしい。細い眉毛を八の字にして、そう言われてもさ、と財布をひとつ叩いた。
「僕は廣瀬と、今、行きたいんだよ」
 理由も説明も足りていないそれはまるで駄々をこねているようで、ずいぶん珍しいことだった。七島は普段からそんなに自己主張する方ではない。こだわりがないんだ、といつだか言っていたのを覚えている。
 もしかすると僕は、自分で考えるよりもこいつのことを知らないんじゃないだろうか。それを寂しいとは感じなかった。ただきっと、好奇心に近かったのだと思う。もしくはやっぱり、電車という大人への階段を目の当たりにして、冷静でなかったのかもしれない。
僕は、自分のリュックの内ポケットからがま口を出し、五百円玉と百円玉が一枚ずつ入っていることを確かめた。それから七島の肩を押し、券売機を二人で覗き込んだ。
「大人の半額で乗れるってことは、大人の二倍遠くへ行けるってことだね」
 数字の並ぶ画面を指して僕が言うと、七島は嬉しそうに「もちろんさ」と返した。僕らはそれぞれ二百円分の切符を買って、改札を通り抜けた。七島は三百円分の切符を買いたがったけれど、それだと僕は行き帰りだけで財布が空になってしまうので、悪いけど我慢してもらった。

 すぐさま電車がやってきて、踏切前の時のように、僕らの髪を揺らした。そうして、僕らしかいないホームにゆるゆると停止した。
「行こう、廣瀬。まだ見ぬ世界が僕らを待っている」
 物語のような言い回しで、七島は開いたドアに一歩踏み出した。続いて僕も電車に乗り込む。中途半端な時間だからか客はまばらで、問題なく座席にかけることができた。窓から遠くに通い慣れた学校が見え、今日、あそこに行ったことが、ずいぶん昔のことに思えた。
 笛が鳴り、ドアが閉まる。反対行きの切符さえ買えばいつだって帰れるし、次の駅でも停車することを知っているのに、もう二度と扉が開かないような気がした。戻れない、となんとなく思った。
 リュックを前に抱え、肩を並べて僕らは揺られる。会話の内容はなんでもないことばかりだった。先週の算数テストは難しかったとか、最近学校の近くに本屋さんが出来たとか、クラスのかわいい女子のこととか、そんなもの。車内に響く声は、定期的にかかるアナウンス以外、僕らのものしか存在しなかった。
 窓から差し込む陽光を受け、七島の髪はいつにもまして淡い栗色に見えた。じっと見ていると七島は首を傾げ、どうかした、と僕に顔を寄せた。
「いや、髪の毛が」
「髪の毛? ああ、光の加減で金髪とか茶髪に見えるだろ、これ。廣瀬みたいな真っ黒ならよかったのに」
「どうして? キレイじゃん」
 目をぱちぱちさせた七島は、しばらくしてからふはっと噴き出した。今日は七島に笑われてばかりの気がする。お返しにと頭をわしわしかき混ぜてやったら、やめろよぉと言ってまた笑った。僕も笑った。

 二百円分の距離と時間を消費するころには少しばかり太陽が傾いていて、世界がゆるゆると橙色に染まり始めていた。僕らは知らない駅で降り、自分たちを乗せていた電車が出発して見えなくなるまで眺めていた。あの電車は、ここからもっと遠くへ行くのだ。世界は広く限りなく、僕らはびっくりするほどちっぽけだけど、昼と夜の境目に立ち、見慣れない景色のただ中にいる僕らは、今だけは確かに冒険者だった。少なくとも僕はそう思った。
「ここからどうする?」
「どうしようか。何をしたっていいんだよ、僕らは。大人とおんなじだ」
「……腹減ったな」
「じゃあ、決まり」
 駅を出ると、スーパーや郵便局、小さい図書館などが並んでいた。人通りはそれほど多くなく、やや寂しい印象を受ける駅前だった。スーパーでジュースと菓子パンを買い、リュックに詰め込んで、座れる場所を探した。知らない街並みをふたりぼっちで歩く僕らを、オレンジの幕が少しずつ包んでいった。
 しばらく歩いて見つけた公園のベンチに座り、それぞれパンの袋を開けた。クリームパンをもごもごとしながら、僕の隣で、黙ってメロンパンをかじる七島を見た。駅を出たあたりから、七島の口数がだんだんと減っていることに気付いていたけれど、それがどうしてかは分からない。七島は分からないことだらけだ。
 僕らより小さな子供たちが数人、砂場や鉄棒の周りで遊んでいた。お母さんたちが、そろそろ帰るよ、と声をかけている。犬を連れたおじいさんが一人、ゆっくりと公園を横切ろうとしている。近所の公園でもよく見るような光景なのに、場所が違うだけでまったくの別物に感じた。
 今この場所で、僕を知っている人は七島だけだし、七島を知っている人は僕だけだ。そう思うと急に心細くなって、七島の手をぎゅうと掴んだ。
「廣瀬?」
「なんか……落ち着かない」
「怖いの?」
「そうじゃないけど、変な感じだ」
 こんなことでは大人になったなんて言えない。冒険者なんてもってのほかだ。情けない気持ちになって、けれど言ってしまったものは取り返せないから、そのまま続けた。僕より大人に近く見える七島は、そんなふうには思わないのかもしれない。
「七島は変な感じしない?」
「……変って、どういう感じ?」
「ううん……僕は、どうして自分がここにいるんだろうって、すごく不思議な気分だよ。七島と『冒険』が嫌なわけじゃなくて、うまく言えないけど……なんか足元がふわふわしてるような気がするんだ」
 自分でもはっきりと分からなくて、あやふやな説明になってしまったけれど、食べかけのメロンパンを手元に残したまま、七島は僕の言葉を聞いてくれていた。真剣な表情の七島が、どうしてか僕は少し恐ろしかった。
 僕は、冒険者になるにはいささか臆病で、思い切りが足りていなかったらしい。駅を出て買い物をするまではなんてことなかったのに、きっかけは判然としない。ただふと、世界から僕と七島だけがはじき出されたような気持ちになったのだ。お母さんもお父さんもクラスメートも先生も、僕らを知っている人たちは誰もいなくて、お互いしかお互いを認識できない。七島が手を引いて連れて来てくれたのは、まだ見ぬ世界ではなく、世界の外側だったんじゃないか。

 七島は微笑んだ。恐ろしさなんて一切感じない、いつもの、ちょっぴり大人っぽい同級生の七島だった。僕が掴んだままだった手を振りほどき、それから今度は、自分から僕の手に手を重ねた。ぬるいベンチの上で、僕らの手がそっと熱を交換し合い、ひとつになっていった。
「きっと廣瀬には、帰りたい場所があるから、そう思うんだね」
「……七島は、家に帰りたくないの?」
「帰りたいさ。廣瀬の家からほんの二本だけ道を挟んだところにある、くすんだ灰色のアパートの、二階の一番手前の部屋。あれが僕の家だ。あれに帰りたい」
「だったら」
 もう帰ろう、と言いかけた言葉は喉で止まった。七島の両の瞳に、僅かな水の幕がかかっていた。海に沈む夕日を覗き込んでいるようだった。
「子供って嫌だね、廣瀬」
 何も言えず、僕は七島と手を繋いだまま、ただ肩を寄せた。七島もそれ以上何も言わなかった。ごくゆっくりした速度で、橙から藍へのグラデーションに塗り替えられていく空を、二人でぼうと見上げていた。

 すっかり暗くなってから、僕らはほとんど空っぽの電車に乗って帰った。家に着いてから、僕がテストでどんな悪い点を取ったときよりも怖い顔をしたお母さんに、晩ご飯もそっちのけでとてもとても怒られた。「心配したんだから」と泣きそうに言われたときは深く反省した。それからご飯を食べ、お風呂に入り、布団に潜り込んだ。七島も同じように怒られたのだろうかと考えながら、僕は眠りについた。

 その次の週、七島は転校した。

 親の仕事の関係で、もともと転勤や転校が多かったそうだ。学校でささやかなお別れ会が開かれた。クラスのみんながみんな「元気でね」「寂しいなあ」なんて言うのを、七島はいつものように微笑んだまま聞いていた。
「七島、またね」
「うん、またね、廣瀬」
 僕と七島の会話はそれだけだった。一緒に帰るとき、分かれ道でいつも言うことだった。その日は一緒に帰り、別れ際、また同じことをお互いに言った。七島が笑っていたから、僕も笑った。次の日から、僕は一人で家に帰るようになった。

 ほんの二百円分先にある世界の外側で七島と過ごした時間は、僕の心でビー玉のように転がり、ふとしたときに光を反射していた。僕は大人にはなれなかったけれど、七島もきっと僕と同じ、大人になりたいだけの、あたりまえの子供だった。
 夕焼けが夜に飲み込まれる時間帯、僕はよく空を見上げるようになった。そのたびに、どこかで七島もこうしていればいい、と思った。夏休みが始まろうとしていた。

【了】

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