国語科は,どこまで来たか

#実践記録  2021/08/21(土)

お昼前ぐらいに宅急便が届く。
段ボールを開けると,プロテインとシェイカー。
タンパク質の摂取量によって他の栄養素の吸収率も変わる。
薬の効き目さえも違ってくるようだ。
院内薬局でプロテインを置いている病院もあるくらいだ。
夏休み前に知りたかったが,今から飲み始めたい。
朝晩2回×20gから。

時間差で本も届く。
『1秒で刺さる書き方』
中谷彰宏さんの言葉をさっそく貪り読む。
繰り返し読みたい本なので,線を引いておく。
使える箇所は,この文章にも生かす。

もう1冊が『文章読本さん江』。
目次を読むだけでそそられる。
 
 1.サムライの帝国
 2.文章作法の陰謀
 3.作文教育の暴走
 4.下々の逆襲

「文章術」を斜めから見透かしている。
作文教育史への批判・評価が特に楽しみだ。
受け継ぐかは別にして,知らないと歴史の針は進められない。
尊敬の念は忘れずに面白がりたいと思ふ。
クソ真面目に受け取るだけではつまらないので。

◆ 国語科は,どこまで来たか

関西の方のある会に参加した。
ZOOOOOOOOMイン。
駆け出しの会だからこそ強い熱が感じられる。

講師として招かれていたのは,最近勢いのある若手実践家。
「理論」と「伝え方」が素晴らしい。
整理されていてわかりやすい。
『桃太郎』を使って,自身の理論をもとに授業を組み立ててみせた。
教材分析のしかたが観られた。
指導事項の見出し方や問いの生み出し方もなるほどとうなずけた。
子どもに働きかけるレベルまでに理論がどう繋がるのか。
教材を通して示すことができていたのがよかった。

私の中で,いくつかの関心事がある。
この会への事前アンケートで以下のようなことを書いた。
それがまず1つ目。

「年間を通じて鍛えていく視点をどう位置付け続けるか」
※視点は,学習用語,教材解釈の見方・考え方,原理原則など。

これまで私が授業でよく使ってきた視点は,「対比」と「具体・抽象」である。
果たして別の教材にも転用できる力はつけられたのか。
また,もっと意識させた方がよい見方・考え方はなかったか。
子どもはたくさん発言するようになった。
たくさんの文章を書くようにもなった。
でも,自覚的だっただろうか。
「国語ができるようになった」
そう認識できている子はそれほど多くなかったのではないだろうか。
講師の方から出された問いからそう思った。

「子どもたちは自分に『国語の力がある』とどういう時に実感できるのだろうか」

どういう時?
その実感する時が,私の中で曖昧なところがある。
話す・聴く・読む・書くにおいて指導事項が明確でないということだ。
感覚や量,やる氣,関係性に頼っているところがある。
子どもが解放されてくれば…
学ぶからだにさえできていれば…
瞬間的な対応力をそうした子どもたちの煌めきに全振りしてきたが…
意図的・計画的の必要性を今は感じている。
手立てにも曖昧さがなくなり,詳細に分析できるようにもなるものと考える。
国語科という教科そのものだけではなく,私自身の「国語科」実践はどこまで来たのか。
歴史にゆだねず,自問自答しながら見出していきたい。

◆ 新たな相棒とのあゆみ

レッツノートを長く使い続けている。
RZシリーズをかれこれ6,7年。
携帯性◎,スピード感◎,タッチパネル○。
欠点は,スピーカーの音が悪いくらいだ。
ディスクの読み込みと同様に,外部機器を使えば問題なし。
キーボードやボタン,そのほか端子の配置までもが体になじんでいる。
次の相棒も,2つバージョンアップした同機種にした。
タッチ感などの違和感やOS変更による戸惑いこそあれど満足している。
相棒よ,容赦しない。
丁寧に使っていくなんて言わないよ
使い倒していく。
それでこそ本望なのではないかと都合よく解釈する。

◆ 変わらない人間

24時間テレビの裏で,ドッキリGPが行われていた。
髭男爵のひぐち君の企画に鳥肌が立った。

健康診断を受けるという嘘番組。
検尿しようとトレイに入ると…
ネズミのおもちゃがドアの隙間から侵入してくる。
爆竹が爆発するというドッキリ。
今回は,ここで終わらない。
帰りがけのひぐち君に催眠をかけて,なんと記憶を消去する。
ソファーで目覚めた彼は…
また同じドッキリを受けるのだ。
繰り返されること,8回。

何より恐ろしかったのは,彼のセリフ。
待合室でディレクターとかわす言葉。
意氣込み。
ドッキリ後のリアクション。
すべて同じ感じであった。
「ひぐちカッター! びっくり!!」
で毎回締めくくる。
もうホラー映画を見ているようだった。

同じ環境・状況に置かれたとき,その人間の振る舞いは変わらないということだ。
偶然に新たな反応が選択されることはない。
同じような反応を返す。
人間ってこんなにも変わらないものなのか。
ひぐち君を観て,思い知らされた。
素のまんま生きていれば,同じ結果が繰り返されるだけ。
例えば,教室で授業をする局面,そのままでは結果は変わらない。
何かを意識し,行動の選択を自分で考えない限りは。


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