男が男に変わる瞬間がある

#実践記録  2021/08/23(月)

夏休み最後の週。
26日(木)から始まる。
明日は健康診断。
前日は準備をしに学校へ行く。
完全に自由な時間なのは,今日だけだ。

5時前に起床。
「生き方」を学ぶ。
突き詰めずとも,“当たり前”を確認することになる。
私自身が今後どう生きていくか?
子どもたちにどう生きていってもらいたいか?
想っていることが授業ににじみ出る。
知らずに子どもにも影響を及ぼす。


その中の一つ。
岡田斗司夫さんのチャンネルで「能力主義」の話を聴いた。

◆ 能力主義を言い訳にしない

「努力できるかどうかも遺伝で決まる」

残酷な真実。
生まれたときから持っている人と持っていない人がいる。
アメ――――クでのティモンディーの高岸さんを例に出されていた。
始球式で,プロ顔負けの投球を魅せた。
なんと時速130km。
「誰でも投げられますよ!」
と笑顔で言う彼にほとちゃんがツッコむ。
「無理やって!」
「やればできます!」
「無理!!」
「あなたにとっての130kmなら出せます」
このエピソードは笑うしかない。
“あなたにとっての”
誰でも到達できるわけではないのだ。

ならば,教室でそう語ればいいのか。
人の能力は決まっているから,時間をかけてもしょうがない。
工夫をこらしても意味がない。
あきらめよう。
向いていないからもうやめよう。
根性論で,無理に乗り越えさせるのは苦しい。
その子を潰してしまいかねない。
でも,「あきらめたらそこで試合終了ですよ」。
やっぱり安西先生に言ってほしいのではないのか。
すぐにあきらめてしまうような先生にはなりたくない。
時間もかけず,工夫もこらさずに,遺伝で切り捨てるなんてありえない。
なんとしてでも……
力づくでいくから,壁を乗り越えさせられないのではないのか。
もっと違う方法があるのではないのか。
可能性は0ではないはずだ。
大車輪をやれとは言っていない。
逆上がりくらいは。
後方支持回転くらいは。
その子なりの挑戦と努力と結果と,それらから得られる実感はあると思う。
そういう実体験を積まさせるのが教師の役目だ。
やらせきらない教師の言い訳を「能力主義」に押し付けてはほしくない。
たった1人の子をなんとかしようと最後までもがく教師もいる。

◆ 子どもの可能性を追い求める中で見えるもの教師の限界

子どもの可能性に挑戦する中で避けられないものがある。
教師自身の可能性も試されているということ。
授業名人なら全員逆上がりをさせられたかもしれない。
自分よりも優れた人ならば……
自分はどれほど優れた人間なのか。
限界を思い知らされる日がやってくる。
残酷にも,汗水垂らし,血と涙を流した者にこそ。
挑み続けるからこそ,越えられない壁が見えてしまう。
早々とあきらめてしまっている教師にはわからない。
どれだけ苦しいことか。
悔しくて,妬ましくて,情けなくもなる。
でも,その子の可能性を引き出したくて努力の道を選ぶ。
能力主義で終わらせるな。
こっちは覚悟しているのだから。

「誰でも努力すればできる」

努力に隠された危険な香り。
誰でもか。
自分もか。
どれだけ努力すれば叶うのか。
努力は足りているのか。
そう,ただ足りていないだけかもしれない。
少なくとも,自分で自分を認められるだけ夢中になって仕事に臨みたい。
納得して死にたい。

◆ 欠かしてはならないのは,尊敬。

「能力主義」は否定できない。
どんな医者に手術してもらいたいか。
もちろん,腕の良い医者に決まっている。
結果を平等にしようと,名医にわざわざハンデを負わせる必要はない。
才能を否定して,救える命を減らさせるものか。
人より優れている医者には,より多くの人の命を救ってほしい。
自分に置き換えてもそうだ。
どんな恋人がほしいか。
どこか自分にふさわしい人を選ぼうとするのではないか。
優れているか,劣っているか,というかふさわしいか。
でも,これも能力主義の考え方そのものだ。
否定できない。
逃れらないのだ。

優れている人が,自分よりも劣っている人を馬鹿にしていいわけがない。
そもそも優劣も何によってつけられるのか曖昧だ。
個人の主観であり,社会の変な通念に流される。
「マックジョブ」という揶揄する言葉がある。
つまり,マクドナルドやコンビニで働く人たちが劣っていると。
そうではないだろう。
尊敬しなければいけない。
社会を成り立たせる上でリスペクトを失ってはいけない。
そうでないと,社会がおかしくなる。
ここは子供たちに教えたり,分からせたりしないといけない。
「どの係活動が偉いか」
「勉強できるやつが偉いのか」
などとは考えさせない。
すべてが社会の一役を担っている。

煉獄さんのお母様も能力主義の発想を抜け出ない。
それでいいのか。
「置かれた場所で咲きなさい」
もし,自分に合わないようなら……
「咲かせる場所に行きなさい」
置かれた場所で努力できるように育てる。
咲かせる場所へ自ら動けるように育てる。
また,動いた後でもやっていけるように。
自己を磨き,他を思いやり,共に生きていく術を身につけさせていくということだ。

◆ 憧れに憧れるのも,間引かれないため。

「人間は,成功している個体を真似るようにできている」

狩猟採集時代にまで遡る。
男性なら狩り。
集団生活の中で,貢献できない人間はどうなるか。
仲間内から外される。
獲物を捕れないくせに食べさせるわけにはいかない。
「働かざる者食うべからず」
役に立たない人間は,間引かれてしまうわけだ。
だから,成功している個体の真似をし,結果を得ようとするのだ。
憧れに憧れる……
この言葉ももとを辿れば,大昔から続く観念に支配されたものだ。

今の世は違う。
できないから,人よりも劣っているからといって社会からはじき出すのか。
障がいがあるからといって,排除するのか。
足手まといは仲間に入れてやらないのか。
自分たちの命が危ぶまれていた時代は,そうせざるを得なかったのかもしれない。
仲間が,家族が生き残る確率が下がるからだ。
自分たちの死に直結する問題だ。
集団が生き延びる可能性を少しでも高めたい。
生存戦略として生まれた感覚が延命させてくれた。

ここから2つのことを考えたい。
1つは,「できる子たちの真似させる取り組み」について。
よくやる手だ。
うまい子を手本にして他の子たちに習わせる。
人間,教えるよりも真似させる方が早い。
技を盗ませて,自分のものにする。
今の社会でも生きていく上で必要な力だ。
でも,そうなっている進化史は肝に銘じておきたい。
もう1つは,差別について。
先ほどの論に当てはめれば,生き残るために差別があったということになる。
その他大勢を救うために必要なことであった。
自然淘汰され,それがあるがままとなった。
だから,差別はなくならない。
どうしても逃げられない。
DaiGoさんの発言も,ここに端を発しているところがあるだろう。

現代では,命を求めるというよりかは皆愛を求めているのではないか。
能力主義によって愛を得ようとする。
差別によって愛を得ようとする。
それが絶対的なものでなくて,たとえ相対的なものであっても。
愛を,なんとか愛を得ようと……
富や名声やお金を,愛と訳しても,同じことが言える。


これが,「思考のものさし」である。
能力主義というものさしによって,いろいろなものが切れる。
語る視点を与えてくれる。
これまでと見え方が変わる。
こういう学び方をさせていきたい。

◆ 始まりに向けて学ぶ。

夏休みが終わる3日前だが,本が届く。
クロネコさんが3回家に来た。
一所になっていなくて申し訳ない。
「重いですよ」
うち1つは玄米の袋。

来た本を一氣に読む。
椅子の上で。
座布団の上で。
ベットの上で。
夢の中で。
おい。


カフェへ。
今日は雨から逃げ延びた。
帰ってきてから土砂降り……。

 ・集中関係のレジュメ再読
 ・1学期の振り返り
 ・これからこと

◆ 主人公の成長を追う。

就寝前に観るもんじゃないが……
映画『弧狼の血』。

新米刑事日岡(松坂桃李)が弧狼へと変貌していくまで。
過激でグロテスクなシーンも多いが……
見事に主人公ががらっガラッと変わってゆく様が描かれている。
「物語文」として分析しがたいがある。

 〇題名『孤狼の血』
 〇設定:広島の呉原(架空だが,ロケ地は呉)
 〇人物:対役は,大上(役所広司)。そのほか,警察やヤクザ同士の相関図
  →中心人物の変容
 〇構成 →設定部分・山場の部分・結末部分の3部構成
 〇繰り返し:「豚のクソ」「ライター(タバコ)」「血」そのほか
  →象徴となる物,伏線
 〇視点: 一人称限定視点
 〇中心人物のこだわり:本質を知りたい,正義を貫きたい
 〇クライマックス →山場の最高潮。
 〇一文で書く:日岡が,【事件・出来事】によって,【変容】する話。

※ネタばれになるため,空欄かあいまいに書いておく。

作品外でのオマージュなどもおもしろさを引き立てるのだろう。


ちょっと抽象度を上げて,作品の感想を綴る。
どのように人は変わってゆくか?

 ・衝撃を目の当たりにしたとき。
 ・人の心中を察したとき。
 ・世界の理がなんたるかが分かったとき。
 ・〇〇〇をしたとき。
 ・対人物の言動に影響されたとき。
  →直接働きかけられずとも,背中を観るとかも。
 ・自分で新たなこと(もの)を発見したとき。
 ・自身の変容によって,相手の態度が変わったとみたとき。

男は,どう男になっていくのか。 
これらすべてが描かれている。


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