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世の中では、実は、あるべき論とか建前論とかが当たり前のように幅を利かせている分けで、まるでそのあるべき姿とか建前が100%正しい、または、それが実現を目指すレベルであるといった前提で議論なり報道なりが進んでいったりするように思います。
で、あるべき論とか建前論を基本に議論が展開される場においては、そのあるべき姿とか建前を少しでも否定するような発言をすることは難しいですよね。
本当は皆、ほどほどを望んでいるのであろう場合でも、もう目指すところはほどほどにしようというような発言をするのは難しいです。
議論に参加する人々の沽券にかかわるというかね、非難される余地を少しでも残したくないというか、そんな意識が議論を左右していると思います。
実際、あるべき姿とか建前とか正義とか、そのようなものとは全く異なるレベルに、人の望むところがある場合も多いのではないかとも思います。
ほどほどの正義感とかね、そういうレベルが本当のあるべき落としどころだったりするのですよね。
いくら正義や理想がこの世に存在しても、それらと、どのへんのレベル感で日頃の暮らしを皆が過ごしていきたいのかということとは全く別のことなんですよね。
このようなことを認識しますと、例えば区役所のガバナンスにおいても、どの程度住民参画を取り込んでいくのかとか、区役所にどの程度の権限を市から移譲をするのかということとかを考える時には多少慎重になりたいなと思ったりする分けです。
皆の本意を探ることを忘れてはいけないと思います。
そういったことを意識していかないと、皆の総意で立ち上がったと思われた社会システムが、実はたいへんギスギスした皆の意に沿わない使いにくいものになってしまう可能性があるなと思ったりします。
報道についてもそうですよね。
あるべき論とか建前論だけをベースに報道を続けても、それは市民の思いに必ずしも合致するような内容にはならないだろうと思う分けです。
必ずしも皆が見ていて心地よいものにはならないだろうと思うのです。人間があるべき姿で存在するなんて有り得ないし、一方的にあるべき姿でいることを期待されるのは辛いですからね。
こういった視点は今本当にメディアも意識すべきものと思います。

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