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今回の感染症の蔓延、そして東京オリンピックの開催可否を巡る動向を体験して、我々は、今まで映画"マトリックス"のネオのように、マトリックスという仮想現実に繋がれていて、誰かの利益のためにマトリックス上で経済を回すということだけが我々が存在する意味として課せられてきたんじゃないかと気づいてしまった。
一見平和に暮らしているのは、実はヴァーチャルな話であって、我々のエネルギーは個々の自己実現なんてもののためじゃなくて、システム(社会)そのもののために使われている。
基本的な人権として存在するはずの自分の安心安全も、経済の名の下に吹き飛ばされてしまいそうな危うさがあることに気づいてしまった。
これが実は実際の“公共の福祉”の仕組なんじゃないか。
もう、一見安心安全な従前のバーチャルな世界には戻れない。
今までの暮らしが、もう既に現実感無く、随分と前のもののように感じます。
なんだか“既に過ぎ去った感”がすごい。
そういうことなんで、これからさてどうするかと。
国も守ってくれそうにないし。
憲法も現実に政府の具体的な対応を課さないプログラム規定じゃどうにもならない。
政府の責任を付さないんじゃ。

※すべての国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(第25条)

もうこういったことに気づいてしまうと、自分が今までのような消費動向に戻ることは無いと思うし、社会も既にそういった消費意欲が減退する方向には少なからず向いていた訳だけれども、今度の危機をきっかけに、消費意欲の減退のみならず、明確にミニマリズムなどの方向にライフスタイルをシフトする人がさらに増えるんじゃないか。
意識的のみならず、無意識的にも。
そうすると、人々が望む街のコンセプトも、青山、銀座、六本木ではなく、西荻、高円寺、阿佐ヶ谷、清澄白河などに傾いていくだろう。
皆は、もう既にそれが必然ではないことに気付いてはいたけれども、薔薇色の町の将来を描くことも、さらなる経済の発展を総合振興計画に記すことも、もうちょっと人間の今後の在り方としては違うんじゃないか。

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