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皆が良く知ってる言葉、説明責任。

Accountabilityの和訳だろうが、説明する責任というよりは、本来は企業の事業が引き起こした不都合に関する企業の“結果”責任という意味だ。

これに似ている言葉で、裁判における立証責任という言葉もある。これは、損害賠償請求訴訟等において、請求する権利を求める者が自分でその権利があることを立証しなさいとする責任だ。

立証責任はまあ良いとして、何かしらを説明する責任について言えば、何事かを問われた方が相手方に説明をする責任を持って、相手の理解を得なければいけないと誤解している人が多くないか。

普段の会話の中で、何か説明を求め、求められる中で、説明される側が、自分が納得するか否か、その全ての責任を説明する側に求めようとすることがしばしば見受けられる。

まあ、会話をする中で、見かけ上相手をやり込めているように見せるには、説明される側が説明する側を、説明が適切でないと言いがかりをつけることが効果的なんだ。いつも、説明を求める側が、コミュニケーションの行方を支配して、説明する側を一方的に責める権利を持ってよいとでも言うような態度が示される機会が多いように思う。

何事も自分が理解できない、または納得できないのは、説明する側が一方的に言葉が足らないとか、説明が不適切であると責めるのは本当に容易だ。

自分がこれをやってみると、ただ責めることは至極く簡単だし、相手より自分の能力が上回ったような卑屈な錯覚や勝利感を得ることができる。

説明を受ける側が説明をする側に、私が理解できないのはあなたの説明が悪いからだ。あなたには私に説明し、私を理解させる責任があると責める分けだ。

しかしながら、会話というもの、人間と人間がコミュニケーションをするということは、その相互関係が何らかの形で成就するということであり、そのためには、会話を行う双方に責任があるように思える。

もちろん説明する側には論理的に、そして簡潔に説明する能力があれば、それにこしたことはないだろう。しかしながら、説明を受ける側についても、きちんと説明する側に真摯に耳を傾ける態度や、相手の不十分さを受け入れる優しさが求められるだろう。

そして、説明を受ける側には、相手の話を理解しうるだけの知識、教養、相手の論理の欠如を補完しうるような推察する力、洞察力、これは言語能力の一種か。または知能と言ってしまっても良いかもしれない。そういった能力が求められ、そして、ただその場に留まり、新たな考えを受け入れまいとせずに、柔軟に異なる考え方を受け入れ、新たなイノベーションをも期待するような態度も重要だ。

コミュニケーションには、このように、いろいろな能力が双方に必要となる。

それらが基本的な条件として身についていないと、そもそも相互にコンテクストが醸成されないだろう。

私は、特に説明を受ける側にこそ、相互の話に成果を見出し、コミュニケーションを成就させる責任を感じて欲しいと思っている。

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