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さいたま市誕生「浦和市・大宮市・与野市合併の記録」によりますと、浦和という地名は、
日光輪王寺所蔵の応永3年(1396)の奥書を持つ大般若経に「武州浦和」と出てくるのが最初だということです。江戸時代には、中山道の宿場町となり、本陣・脇本陣が置かれ、「二・七の市」が盛んになるなど、町場としての体裁が整っていったとのことです。
明治時代になると、武蔵県、大宮県を経て、明治2年に浦和県となり、県庁が置かれました。
昭和7年、省線電車(現京浜東北線)が整備されると、都市化に伴う人口の流入が著しくなり、昭和9年二月には人口が4万3千人となり、市制を施行し、周辺村町と合併を切り返しながら発展し、埼玉県の中心都市として発展していきました。
その後も、9号国道(現国道17号)の開通など道路交通網の整備により、都市化の勢いは駅周辺から郊外まで広がりをみせ、戦後は、日本の高度経済成長とともに、市内に大規模な団地などが建設され、東京への通勤者を激増させながら、その人口規模を大きくしていきました。
このように、浦和発展の経緯を見ますと、江戸という“都市”から延びる街道に沿った“宿場町”として発展しており、近年の人口増加も、その東京から延びる交通網(鉄道や高速道路等)の利便性を市の強みとして、宿場町地域から郊外部分へと住居地域を広げて発展し、東京の衛星都市としての性格を強めてきたことが分かります。
ですから、さいたま市の昼夜間人口比率が今どういう状況にあるのかは、概ね想像が付きます。政令指定都市とはいえ、さいたま市は圏域の中心に位置するものではなく、古くから大都市としての歴史を踏まえて圏域の中心都市として発展してきた大阪市や名古屋市等々とは全く性格が異なります。大阪市の昼夜人口比率(平成22年国勢調査結果)は132.8、名古屋市は113.5、京都市は108.5でありますが、東京の周辺都市であるさいたま市の昼夜人口比率は92.8となり、昼間人口が歴史のある大都市と比べて大分低いことが分かります。
この昼夜間人口比率は、通勤や通学で通う人数を元に算出しますので、さいたま市から他の市部(ほぼ東京都内)に通う人数が多く、逆にさいたま市内に通勤、通学で通う人が少ないということを示しています。
横浜市もやはり東京の周辺都市である性格が強く、その昼夜間人口比率は91.5となっています。
もちろんさいたま市の大宮区(138.7)や、横浜市の西区(186.0)や中区(161.0)など、業務が集積する地域については昼夜間人口比率は高く、また、東京都に近いさいたま市の南区(75.5)や緑区(79.5)、そして横浜市の泉区(77.9)や青葉区(76.2)は昼夜間人口比率が低いなど、市内各区の数値は、地理的な状況等々で様々であることも分かります。
このさいたま市南区や緑区、横浜市泉区、青葉区は、典型的な東京のベッドタウンと言ってよいと思います。
今気になっているのは、この昼夜間人口比率が低い地域なのですが、ようは昼間滞在している人の数が少ないのだから、おそらくはその地域の消費活動(額)も少なくなっているのだろうと・・・。商店は少なく、面白みのある喫茶店や本屋さんにしても、滞在する人口が多くなければ経営は立ち行かなるだろうなと思うわけです。
消費を誘うような“面白み”が育たずに、平日は都内に通勤、通学で通っている市民の方は、週末はさいたま市にせっかく滞在しているのに、さいたま市の昼夜間人口比率が低いことから、“面白い消費”が市内に育たず、週末ですら都内に買い物にでかけるという状況を生んでいるのではないかということです。
そんな憶測をしています。
もちろん買い物客を含んだ交流人口を、昼間の街の賑わいの基礎資料としてとらえても良いのですが、いずれにしても、単なる“夜だけを過ごす町”、つまりベッドタウンとなってはいけないと本当に思うのです。
ベッドタウン=昼間の消費が少なく事業者が育たない=消費を伴った面白い資源が地域に育たない・・・。
それは“面白みの無い町”となり、その地域に愛着も生まれず、地域への誇りも生まれない。
そういった状況が既に極まってしまっている。
その、暮らしている地域で面白みを享受できていない人々、それが“さいたま都民”であり、横浜北部の“横浜都民”なんだと思うのです。
政令指定都市制度って何なんですかね。
さいたま市は政令指定都市となって、その利点を活用することにより都内や大阪市などのような昼夜間人口比率が高い、面白みのある“都市”に変貌しようとしている???
そういうことでもないのでしょうか。
まあリモート勤務が増えて多少良いのかもしれませんが。

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