総合振興計画(基本計画)の計画期間と首長の任期を完全に一致させている市もあるようですが、新しい首長が当選した後の1年は、新しい首長の元で新たな総 合振興計画(基本計画)を策定するための空白になるということでしょうかねえ。

実施計画レベルならば1年単位の策定(進捗管理)プロセスで動かしても良いと思うし、新しい首長も1年目の実施計画や現年の予算に多少手を加えることはで
きるでしょうけれど・・・。でも、基本計画レベル以上についてはねえ。

中長期の計画というか、市政の方針とか理念が首長の任期とともに4年後に無くなっちゃて、その先は誰も分からない!じゃすみませんよねえ。首長候補も選挙
の前には中長期的な市政の方針、理念は尊重しながら自分の公約を作るというのが自然なような気もします。

ついつい、総合振興計画に新しい市長の公約や思いを取り込むのか、総合振興計画をその思いに合わせて作り直すのか・・・なんて話になりますが、これはなん
だか不毛な議論ですよねえ。

それぞれの淵源と言いますか、総合振興計画は議決を経ているという重要性、首長の公約は選挙で承認を得たという重要性、まずは、その各々を尊重することに
なるのだと思います。

浜野安宏さんという人がいて、その著書「ファッション化社会」でこういうことを言っています。

『ファッション化社会(変化の速い社会)では、長期ビジョンなどいくら考えてもしょうがない。流動状況の中でも柔軟に対応してゆけるものはフィロソフィー

である。コンセプトの無い計画は、気のぬけたコーラと同じだ。』

たしかに、流動的で不確実性が増した社会では、計画を作ることの価値があやふやになると思います。近い未来がどんなにぶれようと、さらに先へと続く未来へ
駒を適切に進めようとするなら、やっぱり“生きるコンセプト”、“社会(自治体)を運営するフィロソフィー”が必要だと思います。良いコンセプト・フィロ
ソフィーがあれば、どんな危機も柔軟に乗り越えられます。

そもそも計画とは計画書づくりじゃないです。一度計画書を作ると、それを5年、10年と固定して、その策定直後からの変化を無視し、計画の改定を怠る自
治体もあるでしょうが、計画は生き物です。

計画書ができあがったその時点から、スピードの速い社会変化に対応するため、計画はその体をどんどん変えていかなければなりません。計画とはその時点のコ
ンテンツを大切に守るっていうことよりも、それを進捗するプロセスを重視すべきとも言えると思います。

だから、1つの考え方として、例えば総合振興計画の基本構想や基本計画は、議会の議決があるということで、コンセプト・フィロソフィーとして皆で中長期で尊重しながら、実施計画以下のレベルではそのコンセプト・フィロソフィーを睨みながらも柔軟に対応していくということもあるのではないかと思います。

そういった意味で、例えば公約を総合振興計画に取り入れる云々ということじゃなくて、公約が選挙で市民に承認されたということは、”社会変化に柔軟に対応
しなければいけない部分が明らかになったということ”とするならば、

総合振興計画を公約に基づいて実施計画レベルで柔軟に変えていこうということなんだろうなと思います。

これは、普通の進捗プロセスの話ですよね。

ただ、公約に合わせて総合振興計画のコンセプトやフィロソフィーまで変えるということは、総合振興計画がその性格として持つ普遍性からしても、大分キツイ
話だなあって思います。

やっぱり中長期の目標感みたいなものを、市民が落ち着いて共有する必要があると思うのです。

また、地方には違憲立法審査を行う立法府がありませんから、そのコンセプト・フィロソフィーを“ruleoflaw(法の支配)”であると擬制するっての
も良いかも!?と思ったりします。

正直言ってそう考えていかないと、新たな首長による”権利の濫用”の可能性だって皆無ではないと思うのです。

アメリカが二元代表制(大統領制)だと言っても、それはやはり違憲立法審査制があるからこその二元代表制だと考えます。

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