早朝のカフェ。
勤務先へと急ぐ人たちの流れを眺めている。
若い方々が多い。
皆、仕事をする力に満ちているように見える。
さて、自分のことに思いを馳せれば、定年までやることをやって、
一定のやり遂げ感がある。
サラリーマンとして明確に一つの区切りがついている。
もう定年を迎えた時点で、ある種の、良い意味での心地よい虚無感に包まれている。
そのような心持ちにいながらも、年金はすぐには支給されず、いつまでも心地よい虚無感に包まれながら静かに時を過ごすことが許されない。
そういった自分の心持ちと、自分の現在のサラリーマンの再任用という立ち位置のギャップに自分の心情が上手く対応していかない。
せっかくのやり遂げ感から、なぜかだらだらと次のステップに無意味に存在が引き延ばされて心地よい虚無感をそのまま感じ続けることを許さない。
かといって自分の全く知らない立ち位置や分野で次のやり遂げ感を数年で目指すことができるとも思えない。
せっかくの今のやり遂げ感が崩されてしまいそうな危惧も感じる。
こういった部分が再任用の居心地の悪さを招いている。
やはり仕事というものはそれなりに崇高な成果目標があって、そこに向かって我武者羅に仕事を進めるところにある“やりがい”とか“やりきり感”を味わうことができるからこそやることができたのではないか。
もちろん、体力の低下もあり、社会からの期待感の減少も当然あるので、従来のような我武者羅感を持つことができないとは思う。
しかしながら、再任用という立ち位置で、成果目標を中長期で持たずに、プロジェクティブでもなく、ただ日々のルーティンに身を置くことになんとも納得感がないのは自分だけだろうか。
今、サラリーマンにとってはこのような再任用の形がスタンダードあって、いわば定年退職者にとってはこれが公式の日々の過ごし方だ。
そして、これは、今後定年がさらに延長されて役職定年が実施された後も、管理職から解かれた違和感というものは同じようにいつまでも付いて回るだろう。
それは今まで自分の中に培ってきた能力、技術、心情、信条とは相いれないステージを迎えることになるからだ。
再任用制度は、社会のシステムとして、また、財政運営上は辻褄があっているとしても、個々のサラリーマンの人生・心情においては、けして辻褄があっているものではないのではないか。
よくサラリーマンの定年退職後に、起業を勧める無責任な人や記事も多々あるが、誰もが定年退職後の起業に有益な能力や技術を今まで培ってきたわけではない。
そのような人にとって起業は他人が言うほど簡単なものではない。

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