「風の谷」は、もっと純粋な場所であれるはずだ

慶応SFC所属の安宅和人教授が、風の谷構想というのを主導していらっしゃいます。

筆者の理解では、趣旨をまとめるとこちら。

技術が主導する現在の世界観から生まれるのは、人間と自然の繋がりを失ったブレードランナー的なディストピア都市である。それに対抗するためのコンセプトがいま、求められている。「人間と自然のつながり」を回復するために、都市の代替品(オルタナティブ)として十分に魅力的な場所を構想しよう…。

非常に素敵な考えですし、構想し行動する中で様々に素敵な出会いがある。それは否定しません。ただ、私はこの文章を読んだ際に、ちょっとした違和感を覚えたのです。

それは「オルタナティブと言えるほどの魅力があるのか?

ごめんなさい。かなり挑発的な文言ですが、一言で表現するならそうなります。もっと、多くの人と、世界中の人を巻き込んだ運動にしたいのであれば、現状の風の谷はあまりにも範囲が狭いものに思えて仕方がないのです。

真のオルタナティブを作り上げたいなら、もっと人間に本質的に結びついた欲求、多くの人が純粋に楽しいと思うことをもっと素直に追求できる場所を作り上げるべきです。

…というと何だかアナキスト的で、ヒッピーみたいに聞こえるはずです。
ですが私は現実離れしたヒッピータウンを作りたいわけではありませんし、ただ農耕社会に後戻りしたいだけの政治的立場にも大反対です。
むしろ私は都市が大好きなのです。都市とは人類最大の発明品であり、そのメリットを安易に否定すべきではない。それを簡単に否定するのは、とんでもない間違いだと思っています。

あくまで都市のメリットを利用しつつ、多くの人がもっと純粋に楽しいことを追求できる場所を作るにはどうすればいいか。
いわば、都市をどうアップグレードして魅力的な場所を作るかという話なのです。

そのために本当に必要なことを、考えていきたいと思います。

ちなみに筆者は「風の谷」運動について具体的なワーキンググループなどに所属したことは一度もなく、あくまでネット上の情報のみから理解したに過ぎません。関係者からすれば、すでに議論されている領域と被る部分も、多分に含まれていることでしょう。その場合は、何卒ご容赦くだされば幸いです。

都市のオルタナティブ(別の選択肢)の歴史

そもそも「都市が人間にとって有害であり、このままでは人間性が失われてしまう。もっと人間性を取り戻せる場所が必要だ」という考え方そのものは、今に始まった話ではありません。都市論の中ではかなり昔からある議論です。
そして、どれも実らずに失敗してきた歴史があります。その歴史と、どのように失敗したのかをまずは振り返ります。

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古くは1898年に英国のエリザベス・ハワードが「都市と農村の結婚」による、都市の利点と農村の優れた生活環境を融合した「田園都市」を構想。これは支持者を得て、世界各国で実際に建設も進み、例えばイギリスでは30以上が建設されたほか、日本でも東京に存在する東急田園都市線「田園調布駅」もその結果として成立した場所の一つです。さらに戦後に日本各地で建設されたニュータウン構想に大きな影響を与えているのもこの「田園都市」です。

また、殆ど同時期に問題意識を持ったゲオルグ・ジンメルは『大都市と精神生活』を著し、都市を「技術的機構と個人の自己保存との格闘の場」であると表現。この問題意識は社会学におけるシカゴ派の隆盛も相まって、都市社会学という学問が形成されるに至ります。

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既存の都市のあり方に対して疑問を抱いたのは社会学者だけではありません。1920-30年代には建築家であるル・コルビジェも近代都市を批難し、解決策として「輝く都市 La Ville Radieuse」を構想します。これもフランス・マルセイユなどで部分的に成立したほか、ブラジリアなどの都市構想に大きな影響を及ぼしました。

その後、1950年代以降に自動車が先進国に爆発的に普及すると、今度はそれに対する批判が取り上げられます。ジェイン・ジェイコブズの著作『アメリカ大都会の死と生』では、過度な自動車の普及による都市の拡大(スプロール化)が都市の人間不在を助長するものとして批判されます。1980年代のクリストファー・アレグザンダーによる「パタン・ランゲージ」論も、都市に人間性を回復しようとする試みの一つと言えるでしょう。

ただし、このいずれも現代都市の構造を一変させるほどの制約力は何ら持ち得なかったのです。
田園都市やニュータウンは結果として自立できず(職場もコミュニティ内で完結させることはできなかった)、「輝く都市」もヨーロッパの先進国の一部で例外的かつ部分的に成立したに過ぎませんでした。世界各国の都市におけるスプロール化はジェイコブズの批判にも関わらず拡大し続けましたし、パタン・ランゲージも都市を構想する方法論としてそこまで根付いているとは言い難いものがあります。

これらのコンセプトが都市論や建築論を発展させてきたのは紛れもない事実です。が、コンセプト全体の実現可能性にはかなり疑問符がつきます。どれも部分的に取り出して再現しようとしただけで、しかも大部分が現代においては近代から連綿と続く「都市」というあり方の中に包含されてしまっている。

例えば「ニュータウン」はかつての田園都市の流れを組んだコンセプトです。ですがその実現した例である多摩ニュータウンや千里ニュータウンを「自然と調和した、都市と農村が結婚したような場所」というのには、いささか無理があるはずです。多摩も千里も間違いなく「現代の都市」の中の存在であり、本来の田園都市のコンセプトからかけ離れてしまっています。

都市論において人間性が駆逐される理由

では「人間性を取り戻すはずだった都市論や都市計画」がなぜ失敗し、部分的にしか利用されないのか。それは近代以降の都市と経済の論理、もっと言えば都市と合理性は切っても切れない関係性があるからに他なりません。

「早い/速いのはいいことだ」
「安いのはいいことだ」

この合理的な考え方をベースに都市を考える力があまりに強かったからこそ、人間性ではなく、資本主義を加速させる場所としての都市が出来上がってしまったのです。そして、それこそが都市集中型の未来を作り上げる原動力になっています。

例を挙げましょう。
かつて「都市と農村の結婚」と謳われた田園都市において、最も重要なのは「職住近接」と、それを実現するために「人口数万人程度の規模」を保つという考え方でした。
当時(1890年代)の移動手段は、もっぱら徒歩や馬。そういった移動手段で毎日通勤できる範囲はせいぜい長くても数キロであり、それが当時の田園都市の大きさを決める重要な要素となっていました。

ですが、それは「自動車の爆発的な普及」「電車通勤の大衆化」という社会のモビリティ化の急速な進行によって、次第に崩れてしまいます。
例えばロンドンの近郊30kmといえば、かつては決してロンドンに通勤できない範囲であり、独自の経済圏を持たざるを得ない場所でした。ですが自動車の普及や高速道路網の整備によって、ロンドン近郊30kmの場所からでも中心部に毎日通勤することが可能になったのです。かつて別の経済圏を持ち、独自のエコシステムを築いていた場所が、ロンドンの経済圏に取り込まれてしまう、ということが起こるようになりました。

かくして、職住近接の原則が崩れていきます。
田園都市であっても近くの大都市に通勤するのが当たり前になり(そうしなければ収入が保てず生活が維持できない)、「もっと早く」「もっと安く」という大都会の資本主義(=合理性の追求)の影響を受けるようになりました。

このようにして、田園都市ですら「景観が美しいだけの大都市の郊外」になってしまったのです。
そこに農村の倫理はありません。都市の要素ばかりが強くなり、自然や人間性といったコンセプトは忘れ去られていきました。現在イギリスに残っている田園都市にも景観を保つための様々な条例こそあれ、「人間性」を取り戻すための具体的な解はありません。

つまり仮に素晴らしい都市論があり、忠実にそれを実行したとしても、その当時に想定されていなかった科学技術の進歩と合理性の追求が、容易にその理論を骨抜きにしてしまうということが起こります。
同じことが冒頭に挙げた「風の谷」に起こらない確証はどこにもありません。

「合理性の追求」を超える魅力を作る

20世紀に全地球を覆い尽くした合理性。
私達がどんなに抵抗しても、その拡大を止めることはできないのでしょうか?「早いのはいいことだ」「安いのはいいことだ」という考え方が、これからも一極集中型の都市を作り上げることは避けられないのでしょうか?

筆者はそうは思いません。
一極集中型の都市よりも、さらに良いものを作ることができるはずです。

ただし、合理性で勝負してはいけません。それは敵の土俵で戦うようなものです。仮に現代の科学技術を駆使して「都市よりも合理的な田舎暮らし」を一時的に完成させたとしても、さらなる合理性でもって凌駕されてしまうことが起こります(それが田園都市に起こったことでした)。

そもそも合理性は量的に計測できる指標です。量的に計測できるからこそ、競争が発生します(例えば都市の合理性はインフラコストである程度計測できます)。改善の余地が生まれるなら、ライフスタイルを合理性に合わせて変化させることが求められます。この

ライフスタイル < 合理性

という「合理性のひたすらな追求」こそが、人間から自然を分離し、都市に一極集中させてきた考え方ではないでしょうか。

そう考えるなら安宅氏のブログの中で、風の谷を実現させるための方法論として取り上げられている「廃村寸前の場所で、さらにインフラコストを下げる方法をゼロベースで作り出す」というのは、きわめて都市的な考え方を田舎に持ち込もうとしているようにも思えます。
なによりも「風の谷がインフラコストをさらに下げることを目的に改善を続ける場所」なのだとしたら、きちんと改善できない人はダメだ、という競争の原理が働くことになります。それは舞台を自然に変えただけの大都会ではないでしょうか。

なので、風の谷は合理性にこだわる場所にしてはいけませんし、インフラコストを重要指標にするのも間違っています。そういった合理性の追求は都会に任せ、他の魅力をアピールする必要がある。そうしないと、そもそも都市集中型未来のオルタナティブ(他の選択肢)にはなりえません。

「純粋に楽しい魅力」に立ち返る

では、何を魅力として住んでもらう場所にするのか。何でもってオルタナティブとするのか。
それには「風の谷は合理的だから=早く、安いから」ではなく「風の谷は純粋に楽しいから」住んでもらう場所にすることが欠かせません。

これには少し、解説が必要になるでしょう。
筆者も含め、私達は生まれてからずっと「資本主義のメンタルモデル(=世界に対する見方)」が支配する世界で暮らしてきたので

合理的=早く安い=本質的に人間にとって魅力的なこと

という等式があまりにも当然に思えます。

「合理的であること、早くて安いのが魅力的なのは全人類にとって同じだ」
「だからこそ全世界に資本主義が広まったわけだし、どんな国、どんな民族であっても経済発展を遂げることができる」

と信じているわけです。
それ自体、筆者も間違っているとは思いません。

しかし、全く合理的ではないのにも関わらず全人類が自然とやっていることがいくつかあります。「風の谷」はそちらに注目すべきです。

例えば「音楽」は合理的ではないのにも関わらず、全人類に共通するポイントです。音楽がない民族というのは存在せず、程度の差はあれ先進国からジャングルの奥地の部族まで、人間は音楽の魅力に取りつかれていると言えます。

それ以外にも「目的のない消費」も、共通しているポイントです。アメリカの原住民族には、集落の中心に立派な塔を立て、それをお祭りの日に燃やしてしまう不思議な伝統があります。
同じく、ヨーロッパにもウィッカーマンという巨大な人形をコミュニティで作り上げ、燃やしてしまう伝統があります。日本の火祭りが数百年に渡って何万という人を集めているのも類似例と言えるかもしれません。そして現代のアメリカでも、バーニングマンという「自己表現の場として多くの人が集まり、最終的には火を燃やす」だけの大規模なイベントがあります。
これらは全く合理的ではないのにも関わらず、全世界で人を引きつける魅力がある、不思議な共通点を持っています。

しかし「合理性」という言葉を前にすると、このような「音楽」や「無目的な消費」というコンセプトはあまりも矮小で、くだらないものに思えてしまうはず。しかし、それは私達が「資本主義のメンタルモデル」にとらわれているからこそ。例えば500年前の人はそうは思わなかったでしょう。

なぜなら「合理性」という言葉はたった400年前にデカルトの著作『方法序説』によって発明されたからです。それまで「合理的な考え方」というのは一部の学者だけが知っている秘密の儀式のようなもので、世の中の大半の人は合理性という言葉すら知らずに生活していました。それを世界で初めてきちんと整理したのが、デカルトだったのです。

デカルトが「合理性」という言葉を生み出すはるか前から、「音楽」や「無目的な消費」というコンセプトは全人類を自然に惹きつけてきました。歴史の長さで言えば、はるかに先輩です。

人間が純粋に楽しいと思うこと。それは合理性だけではありません。
歴史を遡れば、これらと似たようなコンセプトはいくつもあるはずです。

これらをヒントにした多くの人が純粋に楽しいと思えることを、都市より素直に追求できる場所。それが風の谷が目指すべき地平線ではないでしょうか。

純粋に楽しいことを拡張する道具を作る

さて、純粋に楽しいことを追求するといっても、実際の衣食住が満たせないのであれば生活できません。さらに「純粋に楽しいこと」といっても人によってかなりの差があります。バラバラなものを最大限発展させるには、どうすればいいのでしょうか。

私は「やりたいことを拡張するシンプルな道具」があればよいと考えます。音楽で例えるなら、五線譜や作曲理論のようなものです。世界中の音楽には様々なものがありますが、五線譜という共通の記号のもとに図式化したり、それを元に新たな音楽を作ることができます。
五線譜や作曲理論があれば、日本人でもアメリカ人でもアフリカの奥地に住む部族が奏でる原始的なリズムを再現できますし、楽しむことができます。その逆も同様です。

「風の谷」が、どのような「人間が純粋に楽しい」ことを追求するのかはわかりません。ですが、それをごく簡単な理論や図式として示し、世界の「センスのよい」人々の手に委ねることが、それを広めるきっかけとなるはずです。そうすれば、200年続くムーブメントにもなり得るでしょう。

「風の谷」運動が、合理性で語る場所ではなく、もっと人間にとって素直に楽しい場所となること。そのための議論をする場所となることを切に願います。

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