9/5 読書日記

9/5は『エフェクチュエーション』第7章"「人工物の科学」としてのアントレプレナーシップ"、第8章「競争優位と起業家的機会」、第9章「エフェクチュエーションに基づく経済学の哲学と方法論」の半分くらい、を読んだ。

午前中から昼過ぎまでリモートのバイト、昼過ぎに寮出発して17時から23時までチョコレート工場で働いて、0時帰宅

チョコレート工場、全然ファンシーじゃなかった(勝手な先入感)笑
ガーナから来た1m×2mくらいのパンパンにカカオ豆が入った麻袋から、カカオ豆をひたすらザバーっと出すお仕事

さて、その日に読んだ分をその日に日記にしてると深夜にしか書けないので、このように前日の分をまとめるやり方に変えました

結局深夜になりましたけどね
明日はオフです

それではまとめます。

第7章「人工物の科学」としてのアントレプレナーシップ

第7章〜第10章は"PART III 通過地点"というパートで、アントレプレナーシップの経済学のいつくかの議論に対して、エフェクチュエーションがどのような含意を持つのかを議論している。

つまり"他の議論→エフェクチュエーション"の流れで、類似点を議論する。元々整合するようにエフェクチュエーションを定義したわけではないと思うが、その後の研究で追認できても否定されても意味のある推論であることには間違いない。

ちなみに今読んでる章で引き合いに出していた議論は
・第7章:人工物の科学(特に準分解可能性)
・第8章:戦略マネジメントにおける持続的競争優位、アントレプレナーシップにおける機会の追求
・第9章:哲学<プラグマティズム
である。

分離命題

「身体は心から分離している」というのはデカルトの心身二元論だが、このような分離命題というのが色々ある。

「行為とアイデアは別のものである」
「起業家の創造力と芸術家の真の創造力とは違う」
「人工物は世界を混乱させることなくデザインできる」
のように

そして、例えば二つ目があることでピカソは研究対象になっても起業家は研究対象にならない。
起業家は経済学において「すげーやつ」として棚上げされる、もしくは(それとは逆の立場に見えるが)「起業家企業が外的環境の需要を満たすために自然発生的に生まれてきた」のように扱われる。
三つ目があるから世界を所与のものとして扱ってしまう。

「人工物の科学」としてのエフェクチュエーションに基づくアントレプレナーシップ

サイモンの人工物の科学において、人工物は
・人間によって作られる
・内部環境と外部環境の境界(接面)
である。

1つ目について、例えば「自然法則は、人工物を作ることを制約はするが決定はしない」、すなわちデザインすることが可能だという特徴に繋がる。

人間の行動には激しい複雑性が伴うが、社会科学ではそれを否定することでこの要素に対応してきた。(行動主義が目的を無視したり、新古典派経済学が人間の認知限界を無視したり、社会生物学が人間の行動がすべて自然法則のように扱ったりすることである。)これは、複雑なものをシンプルであるかのように扱うモデルである。(結果的に社会科学は別のより自然科学的な科学に包摂される恐れがある。心理学が神経科学に飲み込まれようとしており、新古典派経済学は経済物理学の猛攻にあっている。)

これに対して、人工物の科学は「人間の行動が複雑であったとしてもデザインの原則はシンプルなものであるかもしれない」と考える。

2つ目については、例えばシャベルの内部環境(木と金属)は外部環境(人間の手と土)に合うように作られるということである。ナイフの切れ味は刃の材質と切るべき物体の硬度によって決まるし、揺れに対して弱い時計は船ではなく暖炉の上に置かれる。内部環境(刃の材質の選択)は外部環境(切るべき物体の硬度)に写像されるし、外部環境(時計を置く場所)は内部環境(時計の揺れに対する強さ)に写像される。

また、人工物が境界であるとしても、「境界科学」(学際領域みたいな意味かな)ではないことに注意する。アントレプレナーシップにおいて内分環境を重視すれば個人の資質(心理学)や企業の資源基盤(ミクロ経済学)、外部環境を重視すれば産業のライフサイクル(進化経済学)や技術の制度的文脈(社会学、マクロ経済学)になるが、それのことを言っているのではない。

大事なのは「個人や企業が、彼らの内部・外部環境を、どのようにデザインするのか」である。

サイモンが示したデザインの2つの原則は
・非予測的コントロールの原則:未来が、不確実、不可知、予測不可能であったとしても、われわれが望む人工物をデザインすることは可能である(第4章での、Knightの不確実性の中での手中の鳥の原則、許容可能な損失の原則、レモネードの原則、飛行機の中のパイロットの原則などの議論/第5章での、エフェクチュアルなコミットメントによる機会コストの無視などがそれである)
・準分解可能性(near-decomposability: ND)の原則:一定の安定的性質を実現するために必要とされる人工物の構造的様相について説明するもの。(エフェクチュエーションの議論では出てきていない)

サラスバシーは「エフェクチュエーションに基づく起業家は、準分解可能性を満たす関与者のネットワークを構築するべきである」と主張する。
その中身を見ていこう。

準分解可能性(ND)

NDはモジュール性と混同されやすいが、同じではない。(モジュール性も重要であるが)

モジュール性を「完全な分解可能性と、完全な一体性を、両端に位置付けた連続体の中間に位置するもの(ほとんど分解可能なもの・程度の問題)」とするならNDはモジュール性の一種と見れる。

ここで、モジュール性の構造では「誰が誰と結びついているか」と「他のつながりと比べ、そのつながりにどの程度の強さがあるか」の要素があることに注意する。モジュール性はこれらの要素においては一般的である。すなわち、もし、全てのモジュールが他のモジュールと相互作用するならば、相互作用という点では、システムの各部をモジュール的にデザインすることに意味はない。(例えば、このようなモジュール性を持たせた都市計画をするならば、都市は複雑に絡まり合って密集することになる。)

そこでまず第一に、NDは"構造的に"ただのモジュール性ではない。NDは「局所的・偶発的な要素同士の相互作用が生み出すようなモジュール性"である。NDシステムの都市は相互作用(例えばちょっとしたバイアス)による"住み分け"が起こっている。住み分けが起こった後の各部は、分化され、また専門化されている。それはシステム自体が物質の固体・液体・気体のように"相転移"することを表している。NDシステムでは、いかなる時点においても、何らかの分化状態や特殊化状態にあるシステムは存在する。各時点で、それは分化・特殊化を推し進めるが、プロセスを通してそのアイデンティティは維持される。

第二に、NDは"機能的に"モジュール性とは異なる。ここまではnearの解釈を「ほとんど分解可能」という意味で使っていた(ニアミスはミスである)が、nearには「完全に〜になる手前」という意味もあり、次はこちらに注目する。(準事故は事故ではない)つまり、NDを「完全には分解可能ではない」という意味で考え、「何が、それを完全に分解可能ではなくしているのか」を問う。

それが、先ほどの構造的相違の議論で最後に指摘した、相互作用による分化・専門化の原動力となった"アイデンティティ"である。

モジュール的システムの特質は"柔軟性"と"用途の多様性"である。(レゴブロックのイメージ)ここでは部品は色々なものに応用できる。レゴブロックの椅子のアイデンティティは結局のところ椅子であるが、部品は机を作るために使うこともできる。マクドナルドはただのハンバーガーショップの集合体ではなく、組織のアイデンティティは存在するが、組織全体に影響を与えることなく閉店も可能なフランチャイジーの各店舗に分解できる。このアイデンティティはトップダウンでデザインされている。

これに対してNDシステムの特質は、「統合された組織的アイデンティティがボトムアップにデザインされる」ことにある。(そのプロセスは先に述べた相互作用による分化と専門化である。)アイデンティティの知覚は結果ではなく原動力である。「ある物事は存在するゆえにアイデンティティを持つのではなく、アイデンティティを持つがゆえに存在する」とも言える。マクドナルドとは違って、スターバックスのアイデンティティにとってはバリスタの役割が非常に大きい。これは「バリスタというアイデンティティの知覚が原動力となって相互作用を起こし、分化・専門化起こし、NDシステムを形成する」のであって、「レゴブロックが結果として椅子に組み上がり、それがアイデンティティを持つ」のではない。前者はアイデンティティから存在が生まれているが、後者は存在からアイデンティティが生まれている。前者はボトムアップで偶発的だが、後者はトップダウンで意図的である。このアイデンティティの特徴が、NDシステムが完全には分解できない理由となっている。

まとめると、「NDシステムは、繰り返される相互作用を通じた分化と専門化を通じて、ボトムアップにデザインされるという意味でモジュール的システムとは区別される。アイデンティティの近くは、このプロセスの結果ではなく、原動力である」

NDとエフェクチュエーョン

元の主張は「エフェクチュエーションに基づく起業家は、NDを満たす関与者のネットワークを構築するべきである」であった。

NDは急速に進化する複雑なシステムの構造において非常に普遍的な原則であるので、これを企業を創立し育てるプロセスと関連づけられるはずである、というものである。


そして、双方のつながりが局所性と偶発性にあることがわかった。つまり、「合理性の認知限界は局所最適しか達成できない人工物を作らせるが、そうしてできた人工物は偶発性に適当・活用することを学ぶことによって長期にわたって持続しうる」ということである。それらを活かすために、エフェクチュエーションでは相互依存性を活用することが、NDでは独立性を活用することに対応する。

エフェクチュエーションでデザインするのは"経済的人工物"、内部環境は企業であり、これを相互に写像しながらすり合わせるプロセスの中で、内部環境がNDシステムで作られる。

ここで注意しなければならないのは、外部環境も内部環境に写像されるということである。

第8章 競争優位と起業家的機会

ここでは戦略マネジメントにおける持続的競争優位、アントレプレナーシップにおける機会の追求とエフェクチュエーションの関係を見ていく。

超簡単にまとめると
・エフェクチュエーションでは戦略マネジメントに持続的競争優位より自発的なイグジットを提案する。市場は外的なものではなくいずれ滅びる人工物として扱われる。
・起業家的機会とは「新しいものがそれを生産するコストよりも高く売れる状況」であり、シュンペーターはイノベーションをもって均衡を破ること、カーズナーは不均衡を均衡に戻そうとすることをそれをした。
・アントレプレナーシップは経済学を一般化する、という大胆な推論をすると、経済学で"発見される"機会は起業家が"作り出したもの"である、という主張ができる。(経済学はアントレプレナーシップの特殊解であるということ)

という感じ

終わり

第7章はちょっと気合いが入ってしまった。
人工物の科学、興味はあるんだけどこの章めちゃくちゃ難しかった…

第8章は本の方が短いのもあるけど、意識して軽くしてみた
一気に2章は疲れるし、今後継続するためにも軽量化は大事

第9章は明日全部読んでからまとめることにします

書いてる途中にムカデが出たよ
今回はベッドが近かったから不安が募る…

それではまた明日

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