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いつも白くなければいけないわけではない

こどもの頃から、同じ夢を何度も見る、というのはよくある話ですが

わたしも そのなかの一つにこんな夢があります。

ほの暗い丘の上に、石で作った様な質感の大きな建物があって
たぶん自分はそこの住人で。

その中には大きならせん階段に取り囲まれた大きな部屋。
真ん中にぽつんと、たぶんグランドピアノ。

部屋の下の方からの眺めも、らせん階段から見下ろす眺めも
なんども見ているものだから覚えてしまった景色。

どうしてこんな
ちょっぴり暗くて寂しい広さの中にわたしはいるんだろう
そう夢の中で思ったこともありました。

今日、なんとなくその夢の意味が分かった様な氣がしたので
noteしてみます。

イーグルトライブさんのオンラインのワークショップに出席しました。
それは、インディアンの伝統的な会合のやり方で、
全員が全員の意見を聴き、自分も話す〜だれかに向けたものではなくて、ジャッジも同意も、表さずに〜というものでした。

どうしても職業柄相手を意識して笑いをとろうとする、じゃなかった、喋ってしまう、のですが、それはおいといて。

今回氣づいたこと。

ジャッジすることって
「悪いこと」ってどこかで認識していたのですが

人をジャッジする氣持ちは
自分の中の過去の一部をジャッジしていることにすごく近いわけですけど、

なんだかそれって

映画やドラマを見て、自分の過去とリンクして共感して泣いたりするときと
実は似ているのかな、ある意味イコールなのかもしれないと。

人生のぐるぐる階段を丁寧にひとつずつ上るのは


あの
いつも見ていた夢。
あの夢に出てきた大きならせん階段を上りながら
いろんな角度で真ん中の部屋を眺めているようなものかもしれないと。


らせん階段をひとつずつ登りながら見る景色。
部屋の真ん中には
大切な物が置いてあるのだろうか。
どんな角度から眺めたとしても
部屋の真ん中に置いてある大切な物は変わらないんじゃないのか。

シンプルだけど
フラットな氣持ちで
ただ聴いてもらったり、話したりすることって

実はすごく深いどこかに接続しているのかもしれないなあ〜。

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