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「幽囚の心得」第12章               規範の存立根拠                  ~合理の裏付けと慣習的価値~(7)                        

 人間は美しく生きるということをどのような時でも目指し続けなけねばならないと思う。美しく生きるとは、伝統的、慣習的価値を大事にして、それを基軸としながらこうあるべしとの行動選択を積み重ねる生き方をしていくことである。何らの精神的支柱も有さない者の生き方が美しい輝きを魅せることはない。美しくない生き様には恥じ入る心気を覚えねば嘘だ。恥じるべきは他者と異なる振舞いについてではなく、美しく生きるしんどさから逃避しようとする惰弱さについてであるとよく知らねばならない。

 自己の利益や便宜、そして享楽を措いて、本来、人はこうあるべしとの思念を働かせてみるがいい。そして、その思念のうちにはその課題につき自らができるできないとの判断は一切介在させてはならない。純化した真理に達するためには邪念を祓いこれを排する必要がある。弱き心は困難を前に自己を擁護する弁疏を働かすのが常である。本来、こうあるべしという境地に辿り着いたら、多くの者は自らの現状に悶絶する心持ちとなるかもしれない。理想との乖離に無力を感じ茫然とするかもしれない。しかし、それでも人間というものは、できるからやるのではなくて、やるべきだからやるという生き方でないといけないのだ。こうあるべしということに果敢に挑む生き方でないと生命燃焼を尽くすということはできない。本当の自分を生きたことにはならない。

 思案の間ならば、左右前後の事を様々シミュレートするのは当然としても、一旦覚悟を決めた以上はものに怯えるべきではない。振れてはならぬのだ。士魂を有する者の行動は明快であらねばならず、遅疑逡巡し、あるいは細工を小汚く用いる卑怯を働かすなど以ての外なのである。

 我々が私欲を捨てて、人は本来こうあるべしと思念する至純なる道徳的内容は我々の生きている国、地域の紡いで来た歴史の産物である。それ故、どう生きるべきかを思念するとき、その伝統的価値、慣習的価値を探究することは不可欠の要請と言わねばならぬ。
 具体的な探究の方法は至極単純なものである。我々日本人が長い歴史の中で何を信じ、何を愛し、慈しみ、何を願い、何に幸福を感じ、何を怖れてきたのかということを想念するのである。そして、その見出した価値を加工することなく、自身の人生の在り方に当て嵌めてみるのだ。

 受刑者は自らに課されるルールの存立の根拠、人権制約を正当化する根拠について、如何なる合理の裏付けが存するものか、常に思索を巡らせるべきだろう。人が人に課すルール(狭義のルール)には必ず合理の裏付けが存しなければならない。合理の存否に何らの思索もなさず、これに盲従するだけでは何らの矯正教育にもならず、人間としての修養の上にも意味をなさないことは明白である。それは単なる奴隷の状態を表すのみである。そうした世の中にある様々な規制の趣旨如何を思索する姿勢とその為の能力は社会生活を営む上で極めて重要である。そして、それは善悪の判断に働く思考の在り方と同質的なものである。

 受刑者を指導する立場の刑務官がこうした物事の本質論を理解しておかねばならないのはもとよりである。刑務官は受刑者の正しい理解が進むようルールの正当化根拠についての説明を折りに触れてなすよう意識すべきである。そして、受刑者は合理の裏付けを見出したならば、そのルールに趣旨に適うかたちで従うことだ。何だか意味を見出だせない不合理な抑制によるのではなく自身が合理と認むことである。合理と認むにも拘らず、単に抑圧に反発して自儘に行動したいという欲求だけで、そのルールに従わないことに何らの理も認められない。それは単にだらしが無い奴ということで終わる話でしかない。不名誉極まりないことである。

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