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20160517キャラクター

天気のせいか、体が重くて一日だるい。
運動不足。
からだが硬い。一日中ほとんど動かない。
この2週間くらいはすこし忙しくて机にへばりついてた。
「やせよう」と思うより「鍛えよう」と思うほうがポジティブ。

最近やっていたことはふたつ。

ひとつめ。
「西瓜」という漫画を描いた。
ふたつめの漫画作品。コミティアに持っていった。ぎりぎりで描き上げたけど思ったより好きな作品になった。でももっと描かなきゃな。通販に追加する予定。


ふたつめは、キャラクターのイラストレーター。
これは時々途切れつつも3年目くらい。
やってるあいだにいろんな心境の変化があって、今はすこし面白いというか頑張れば成果がでるという当たり前のことを、嬉しく感じる。

キャラクターを描くことは、どこかバカバカしくて低俗に感じる部分がある。だから時々いやになってやめたくなる。でもそれなら、あれだけ絵の練習をさせてくれたポケモンのキャラクターたちも低俗なんだろうか。
「キャラクター」とはなんだろう。

ここ数日考えてた。


キャラクターとは記号だ。

ディテールが消滅し、単純な幾何学や分かりやすいイメージで認識できるもの。
それはまさしく「記号」そのものだと思う。

そしてキャラクターが持つ二つの要素。

「補完」と「増殖」

キャラクターは往々にしてデフォルメされる。
微妙なニュアンスは消え、単純なかたちになる。
でも、その消えた部分は受け手がそれぞれのイメージのなかで補完していく。だからディテールが表現されているよりもはるかに豊かなイメージが自然発生的にうまれる場合がある。イメージが補完されるのがキャラクター。

そしてデフォルメされて単純なものであるがゆえに「増殖」が容易なのもキャラクターの特徴。たとえば絵画であればオリジナルの作品に価値があり、それ以外の複製品はあくまでレプリカとしての価値しか持たない。でも、それがキャラクターであれば、オリジナルはその複製品と同等程度の価値しか持たなくなる。それはそもそもキャラクターがディテールのないものだから、コピーされても劣化がほとんどないため。「複製」というより「増殖」が相応しいのは自動的に増えていく場合が多いから。

こう考えていくと、キャラクターとは何もアニメや漫画のなかの話だけではなく、人でさえもキャラクターなのだと気づく。

人は人をキャラクターとして認識している。
ある程度ディテールを排除し、「この人はこういう人」と理解した気になる。
それで安心し、初めて気楽に接することができる。頭の中で相手のイメージを補完する。
そして逆に認識されるほうも内情というディテールを隠して相手の求めるキャラクターを演じたりする。

ブレた存在は不安を誘う。

その人にとって「キャラ立ち」していないと安心して接することができない。
キャラクターは無駄なことは言わず、せず、求められた役を演じる。

キャラクターというキーワードはなかなか面白そうで、興味が出てきた。
しばらく考えてみよう。

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