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三進堂書店さん(とその近隣)の思い出

現在のJR御茶ノ水駅の、聖橋改札脇に古本屋があった。三進堂書店さんという。2020年3月、聖橋改札が現在地に移転した2日後に、閉業してしまった。

『現代ヘブライ語辞典』

高校3年の冬、私は進路が決まらず絶望的な状況にあった。通っていたのは付属校だったから、普通に過ごしていれば大学に進むことができたはずなのだけど… 高校時代の話は脇に置きたい。かいつまんで言えば、高校が嫌いで、同級生とは話が合わなくて、とにかく早く抜け出したかったのである。だからひとりぼっちで、駿台の冬季講習に通っていた。

当時の聖橋改札を出て、駿台予備校お茶の水校へ向かうと、右手に三進堂書店がある。冬季講習の初日、駿台へ向かう道すがら、私はここの書棚に『現代ヘブライ語辞典』が並んでいるのを見つけた。売値は3000円で、これは高校生の一回の出費としては悩む額だ。踏ん切りがつかず、でも諦めきれず、「明日寄って、まだあったら買おう」と決めた。

翌日、お店のシャッターは下ろされていた。年末なのだ。がっかりした気持ちを抱えたまま、予備校へ向かった。

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そのとき受講していた「スーパー英語総合完成」という講座は、内容が高度すぎて、すでに1日目にして消化不良気味だった。内容が高度だったことに加えて、はじめて足を踏み入れた予備校の、受験を前にした雰囲気にあてられて、くじけ気でもあった。すがるように受講した講座に馴染めず、本も買えなかったので、やる気が起きない。

仕方がないので、荷物をまとめて帰ることにした。後に「スーパー英語総合完成」はキャンセル待ちが出る人気講座であり、担当されていた小林師が駿台の人気講師であることも知って自分の行動を恥じた。誰かが受けたかった授業かもしれない。

帰り道にお店の前を通ると、お婆さん(とお呼びしていいお年だったのか、わかりませんが…)がシャッターを掃除していた。思わず「年内の営業はもうおしまいですか」と聞いた。すると「いま必要なんですね」とわざわざ開けてくださり、ヘブライ語辞典を売ってくれた。

帰り道の電車の中で、辞典を開く。ヘブライ語のみで書かれた序文があり、そのうちの「すべてのユダヤ人が離散の地からイスラエルへ帰還した訳ではない」という1節が読めたことに感激し(2ページ後の日本語訳で確認)、受験勉強さえなければ、いくらでも興味のある本を読み、勉強できるのに、ともどかしさを覚えた。

進学先は全く見えなかった。付属校に在籍していながら、塾や予備校に(通年で)通わせてくれとは言えず、しかし割り切って勉強することもできなかった。冬季講習には申し込んだが、それもなんとか手を打っているように見せたくて受けていた講座だった。

そんな時期に手にした本なので、感慨深い。今でも書棚に並んでいる。

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この『現代ヘブライ語辞典』は、見出し語に対して品詞の表示と訳語がいくつか並んでいる簡潔なものだけど、巻末には術語リスト、対語リストのほか、イラスト付語彙集、文法の説明があって重宝する。

『やさしいペルシア語』

『やさしいペルシア語』は、先の記事で触れた泰流社から出ていた教本である。「書き方」「会話」「文法」の3分冊とカセットテープが箱に入っている豪華な仕様で、「書き方」「会話」を岡田恵美子先生が、「文法」を黒柳恒雄先生が書いている。3冊が赤、白、緑と、イラン国旗を模した装丁になっている。

この本は、(結局駿台での浪人を経て晴れて)大学生になった後、購入した。いつもカウンターで楽しそうに鼻歌を歌っていたご主人が、「泰流社ももうなくなって久しいね」と話しかけてくださったのが嬉しかった。というのは、そのころには既に、無礼で高圧的な古書店主を数多経験していたため。

『愛蘭英語と蘇格英語』

「研究社英米文學語學講座」の一冊で、著者は勝田孝興とある。ワゴンの均一価格本コーナーでこの不思議なタイトルを見つけ、一瞬遅れて「アイルランド英語とスコットランド英語」と理解した。奥付を見ると、昭和15年の発行である。

アイルランド英語とスコットランド英語のそれぞれについて、発音、文法、語法、語彙等が示す英蘭英語(イングランド英語)との違いを解説している。戦前の文化レベルを馬鹿にしていたわけではないが、その一端を示す実物を(しかも安価で)目にして感動した。

三進堂書店で何かを買ったあと、並びの博多天神でトッピングをひとつ乗せるのが、当時の私の「豪遊コース」だった。たぶんこの日も、思わぬ見つけものに気分が高揚して豪遊していたに違いない。

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博多天神は、浪人時代以来、今でもときどき食べにいく。浪人中、元気が出ずにしょんぼりしているときに、お店のおじさんおばさんたちの元気のいい声で迎えられ、ラーメンを食べると元気が出た。

ある日、古本を漁ってからラーメンを啜っているとき、お店の外から女子高生とそのお母さんが、「駿台予備校はどっちですか」とお店の人に尋ねていた(お店は通りに面してオープンになっている)。お店の人たちが答えあぐねているうちに、私の隣に座っていた高校生が、「あっちです」と指差して答えた。そこで私は「1号館ならあっちですが、2、3、8号館なら反対です」と反射的に補足した。

それでなんとなくその高校生と「ああどうも」みたいな雰囲気になり、「大学生の人ですか」と聞かれた。私は偉そうに胸を張って、「駿台で浪人してました。浪人中の思い出の味が忘れられず今でも来ちゃうんですよね」、なんて答えた。その後、おばさんが「あんた、さっきの嬉しかったよ」と味玉をサービスしてくれたのもまた、素敵な思い出。

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