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*ネタバレ*「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」劇場版 感想 真城 悠

 これを書いているのが2021(令和3)年3月14日(日)ホワイトデーの深夜。
 愛する妻に高級チョコレートとコンビニスイーツをふるまったところ。
 この前の週2021年3月8日(月)に「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が公開されたところです。
 テレビシリーズの開始が1995(平成7)年10月4日(金)。終了が1996(平成8)年3月27日(金)。
 今となっては「旧劇場版」と呼ばれた「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生」(俗称・春エヴァ)が1997年3月15日(土)。
 俗称・夏エヴァこと「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」が1997(平成8)年7月19日(土)公開。
 ここで一応の完結を迎えます。
 当時このアニメがどのように受容されていたかについては余りにも書くべきことが多く、ここでは書ききれません。
 「小説家になろう」内にて、「対談形式」にて語っておりますのでこちらからどうぞ。
「だべり部 アニメ・ゲームその他について語りつくす!」
https://ncode.syosetu.com/n8452co/
 アニメ全般、特にガンダムに始まる「リアルロボットアニメ」の歴史的な流れについて語っております。「エヴァンゲリオン」についてが始まるのがこの辺からです。
「「新世紀エヴァンゲリオン」について 01」
https://ncode.syosetu.com/n8452co/71/

 そして2007(平成19)年になって「新劇場版」シリーズが再開するわけです。
 この間、断続的にコラボ商品やキャラクター商品、公式二次創作(?)作品などが発売され続けるため、一見すると「人気が継続」していたかのように見えます。
 ところが実態はかなり違います。
 もちろん、放送中はもちろん放送直後においても日本のアニメにおいて「エヴァンゲリオン」の影響を受けていないアニメなど皆無というほどエピゴーネンが溢れかえりました。
 終末を感じさせる雰囲気や大災害、大きな陰謀、正体の分からない敵、吠える巨大ロボット・・・。
 ただ、本家の「新世紀エヴァンゲリオン」そのものは2007年までほぼほぼ忘れ去られていたアニメであったといっていいと思います。
 いや、それどころか「思い出したくもない」アニメでした。

 それは、エヴァ自身がそれを望み、それに応えた形といっていいでしょう。
 「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」自身がそうで、画面内に「アニメ映画を鑑賞しているファンの実写映像を映す」「出演している女性声優の姿を映す」といったメタフィクション的な映像実験のみならず、アイドル的な人気があった「綾波レイ」を得体のしれない化け物に描き、醜く変形させ、爆発させ・・・ととにかく「生理的嫌悪感」を催させる描写を「これでもか!」としつこく繰り返し、「お前らアニメなんか見てる場合か!現実に帰れ!」というメッセージを叩きつけるかのようなアニメだったのです。

 これによって限界まで膨らみ切っていた「エヴァ熱」は潮が引いていくようにしぼみ、その後10年以上にわたって「新世紀エヴァンゲリオン」などという作品があり、それに熱狂していたことなぞ「思い出したくもない」状態になってしまいます。

 端的にわかるのが、恐らく史上初めて「オタク第三世代」を中心に描いた「オタク漫画」たる
『げんしけん The Society for the Study of Modern Visual Culture』
(木尾士目・講談社)
における「エヴァ」の扱いです。
 彼らはガンダム放送開始時に生まれたと自称していることから、1979(昭和54)年前後の生まれであると推測できます。
 なんと、エヴァ本放送の「1995(平成7)年」においては、彼ら彼女らは「14歳」(!!)であったことになります。
 14歳といえば「この年齢でないとエヴァのパイロットになれない」という正にその年齢であり、仮にもオタクを自称する彼ら彼女らがエヴァに影響を受けていないなど全く考えられません。
 にもかかわらず、劇中には「エヴァ」の「エ」の字も出てきません。
 権利問題ではないと思われます。というのも、アニメ含めても「ガンダム」は出まくっていますし、エヴァはワンダーフェスティバルの一日版権の例を見るまでもなく、きちんと手続きを踏めば劇中に名前の使用を許さないということは全く考えられないからです。

 つまり、「14歳の頃に見たエヴァを20歳で語るのは『最もダサい』」という位置にエヴァはいたということに他なりません。

 社会の空気的にもそうで、実際「夏エヴァ」で「なんじゃこりゃ」と思った熱狂的なオタクの多くはもう見向きもしなくなっていました。

 情勢が変わったのは・・・時間によって思い出が浄化された・・・わけではなく、実に即物的な要因によるものでした。
 2004(平成16)年12月に発売された『CR新世紀エヴァンゲリオン』(CRしんせいきエヴァンゲリオン)という「パチンコ」の大ヒットでした。

 ちなみに、他にも沢山アニメや漫画コラボのパチンコ台がある中、どうして「エヴァ」だけが大ヒットしたのかは、
「パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)」(安藤 健二 ・洋泉社)
 に詳しいのでそちらでどうぞ。
 結論から言うと要するに、「たまたま画期的にゲームとして面白いギミックを新採用したのがエヴァのパチンコ台だった」ということです。

 演出画面で出てくる「絵素材」が26話のテレビシリーズと2本の劇場版だけでは足らなくなってきたため、「新しい絵」が欲しいとの要請で「新劇場版」が製作されることになったそうです。
 ちなみに「パチンコマネー」で作られたアニメといえば「マクロスF(フロンティア)」があります。
 パチンコといえばあまりいい印象を持っていない読者も少なくないかもしれませんが、これらは日本の文化にかなりいい影響を与えて貢献してくれた例であるといっていいと思います。

 ともかく、全体をリメイクするという「新劇場版」シリーズがスタートします。
 公開日を並べます。
2007(平成19)年9月1日 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
2009(平成21)年6月27日 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
2012(平成24)年11月17日 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q
2021(令和3)年3月8日(月) シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇
 こうしてみると「ヱヴァンゲリヲン」表記が4作目では取られていないなど、相変わらずの行き当たりばったりが目立ちますな。
 ともあれ、実に14年の歳月が流れています。
 ちなみに、「旧劇場版」の公開から「新劇場版」の開始までが13年ですから、それより長いことになります。この間「シン・ゴジラ」(2016年(平成28年)7月29日公開)もあります。
 とりわけ「エヴァQ」こと「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」からが8年と凄まじく長いのが特徴的です。

 実際に公開されてみると、それこそ「一周して」面白がる新規のファンに温かく迎えられ「一昔前」のアニメであるにもかかわらず好意的に受け止められました。
 「90年代のカルト的ヒットアニメ」とセットで語られる「最終回をめぐる騒動」(上記「なろう」の記事を参照)もまた、フラットに受け止める新時代の視聴者を獲得しました。

 面白いのは、本放送時と「エヴァ」と「ガンダム」の立ち位置が逆転している様に見えることです。

 本放送時の「1995年」においては、「エヴァ」はディープなオタク向けであり、「ガンダム」はまだそれなりのポピュラリティのある普通のアニメという雰囲気があったのに、2000年代に至っては、「エヴァは割と誰でも目にしたことのあるオシャレアニメで、「ガンダム」はディープなアニメオタク向けのアニメ」みたいな感じで。
 まあ、私の妻に言わせるとどっちもどっちレベルだそうですが。

 やっと前提条件が終わったので感想に入ります。いよいよ本格的にネタバレするのでそのつもりで。

 結論から言うと、「観てよかった」と思いました。
 最後に見たのが「エヴァQ」だったとしたら「死んでも死にきれない」でしょうね(笑。

 やれ細かい言葉だの用語だの、展開のパターンが似てるだのはもう散々やったし今もしかるべき人がやってるので、「シンエヴァンゲリオン 考察」とかで動画検索をしていただければ幾らでも出てきます。
 ちなみに「黒き月」や「白き月」が今回恐らく初めてセリフとしてはっきり言葉になったのですが、これはプレイステーション2で発売された「新世紀エヴァンゲリオン2」内で言及されている設定です。
 本編では説明されていません。

 私自身は、夏エヴァでエヴァを「見限って」いるつもりでした。
 作品として純粋に面白くないということもあります。
 これはバッドエンドだからというような単純なものではありません。バッドエンドでも大好きな映画は沢山あります。
 当時の監督の精神状態についての話も耳に入らなくはありません。
 しかし、お金を払って娯楽を買いに来ているお客には最低限のサービスというものがあるでしょうに、説教臭いだけならまだしも「積極的に嫌がらせをする」行為はプロとしてあり得ないとおもったのです。

 一番理想的なのは、あの1996年の3月にきっちりカタを付けることだったと今でも思います。
 しかし、諸事情でそれはかなわず、「当時の技術で出来る限りのこと」をした結果、言ってみれば「舌足らず」であのテレビ版のラストになった・・・と思っていました。だからこそ、ほぼ突貫工事で作られた「旧劇場版」はテレビ版のラストをより丁寧に、めいっぱいお客に嫌がらせをする作品に仕上がりました。
 基本的にテレビシリーズと旧劇場版はほぼ同時期の地続きの作品であって、描かれている内容はほぼ同じです。

 長くなるのは避けたいのですが、一つだけ言えるのは、実は「新世紀エヴァンゲリオン」は「世紀末アニメ」だということです。
 テレビ放送が1995年、映画が完結するのが1997年です。
 ノストラダムスの大予言で1999年で世界は滅ぶとされており、当時の世相は今想像するよりも遥かに暗く陰鬱なものでした。
 それでもまだ80年代は「北斗の拳」みたいに、世紀末を娯楽として消費する余裕があったのですが、90年代になってくると「終わらない日常」などと正に今にも世の中が終わりそうな暗い暗い世相でした。
 「AKIRA」に代表されるように、劇中では何かと「世界核戦争」が起こり、世界が破滅します。
 かつてはセットで語られるのが当たり前だったのですが、「新世紀エヴァンゲリオン」は「阪神淡路大震災」と「オウム真理教事件」と同年に放送されています。
 もはやここまでくるとヤケクソで「破滅」に「酔う」くらいでないとやってられませんでした。
 また、詳しくは上記の「なろう」の記事を読んでほしいのですが、「宮崎勤事件」はたった6年前の出来事です。
 今を時めくアイドルが平気でオタクを自称する今と世相が全く違います。
 本当に冗談でなく「アニメが好きで」なんて公共の場で口走ろうものなら通報されかねない時代でした。

 かつて「エヴァが人気」という情報に対して「えっ!?あんな暗いアニメが?」といったタレントがいました。
 そう、エヴァは「暗い」「シリアスな」アニメでした。
 それは正に「世紀末」という時代をモロに反映していました。

 嫁に爆笑されたのですが、1997年の「最後の劇場版」は「この映画が公開されたら人類は滅亡するんだ」くらいの気持ちで観に行ったものでした。当時観ていた人に共感してもらえると思うのですがそんな気持ちも忘れたかなみんな。
 今にして思えば「1997年」という年代が絶妙でした。
 1999年の破滅という「幻想に酔える」最後のタイミングだったのです。
 これが1998年になってくると「来年の予定」に普通に「1999年」が入ってきてしまい、「破滅するはずの日付」が「日常と地続き」になってしまうのです。

 つまり、「シンエヴァ」は1997年のテレビシリーズの最終回として放送されることはどちらにしてもあり得なかったわけですが、仮に「スペシャル長時間版」としてCGなどの技術的な側面はさておいて、同じ内容のものが放送されたとしても受け入れられなかったでしょう。

 何しろ「2007年」に再公開されてしまったことで、「エヴァ」は「世紀末アニメ」というアドバンテージを喪失してしまいます。
 そこに「普通に面白いアニメ」はあったのでしょうか?
 ある程度はありました。
 序盤で最も面白いとされる伍・六話の「ヤシマ作戦」を念入りに描きなおした「序」と、シリーズ中最もアッパーな「破」。
 ちなみに「破」で描かれたのは、旧テレビシリーズでは「拾九話」(19話)にあたります。
 実はあくまで噂なのですが、この時点でテレビ版の製作スケジュールは破綻しており、残り7話は「劇場版までのつなぎ」とされる消化試合に入ったとされていました。
 そう、切り捨てられたのは「25・26話」(正式名称は旧字体なのだが、煩雑なのでアラビア数字にて表記。以下同じ)だけではなかったんですね。
 それでも「旧劇場版」は「25・26話」が無かったことになっており「24話の続き」から物語が始まります。
 それに対して「テレビ版では描かれない真の「続き」」は、テレビ版で本来描かれる予定だった「19話からの分岐」ルートに入ったのです。
 それが「エヴァQ」でした。
 少なくともそのはずでした。
 ちなみに、今もネタにされる「エヴァ破のラストに流れたエヴァQの予告」がこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=xYH1db5FiU8
 謎の登山場面を始めとして、実際に公開された「エヴァQ」とは1秒も共通していない「幻の予告編」となります。

 私の好きな冗談にこんなのがあります。とある人生相談。
「夫はエヴァが大好きで、喜びいさんで「Q」を観に行ったのですが、帰ってきたら別人のように落ち込んでいました。どうしたらいいでしょう?」・・・というもの。
 実際、「エヴァQ」はそれまでの内容を一切踏まえず、観客を突き放し、何が何だか分からないまま終わります。
 というより、「人類の九割は既に死んでいる」という「失敗した後の世界線」みたいなことになっており、それも単なる大災害じゃなくて地球上が真っ赤に染まった悪夢みたいなことになっています。
 「エヴァ破」はとにかく大好評だったんですが、私にはなんだか「カラ元気」みたいに「無理して無理やりテンション上げている」様にしか見えず、「この調子で最後まで行くとは思えないなあ」と思っていたのですが、悪い方向で的中してしまいます。

 ちなみに今回の「シンエヴァ」においてシンジくんは「失語症(パンフレット表記)」になっており、まともに動けるようになるまでかなりのシークエンスを必要としましたが、これは監督自身の精神状態を踏まえたものとされているそうです。
 「エヴァQ」で相当にバッシングされ、何も作れない日々が続き(その割にはジブリ映画で主演したり、怪獣映画撮ったりしてますが)、だからこそ8年も掛かったわけですが、そりゃこんなの作れば不評に決まってるとしか言えません。

 ただ、実はここで日本の歴史上でも特大筆記される大事件が起こっていました。

2007(平成19)年9月1日 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
2009(平成21)年6月27日 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

*2011年(平成23年)3月11日(金) 東日本大震災

2012(平成24)年11月17日 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q
2021(令和3)年3月8日(月) シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇

 新劇場版エヴァ4部作のど真ん中に死者3万人という大惨事が起こります。
 製作期間から考えると、地震を受けたところから全て作ったというわけではないのでしょうが、「世紀末アニメ」ではなくなったものの「大震災の自説の影響を受けた」アニメにはなってしまっていました。
 のちに「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」がテレビ放送された際には、震災前に作られた「大量の使途の血液が津波のように街を破壊する」場面がカットされていたことからも「Q」以前と以後では状況がまるで変ってしまったのです。

 結果として「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」は「復興アニメ」という色合いを強く受けることになりました。
 新型コロナウィルスによる防護服やマスクなどを必要とされる情勢と重ね合わせるのは牽強付会にすぎるでしょうが、新型コロナウィルスの緊急事態宣言を受けて公開延長を繰り返し、くしくも「震災から10年目」のわずか3日前に公開されることとなりました。
 元祖「ゴジラ」(1954(昭和29)年11月3日公開)が、核兵器の被災と、そして懲りずに行われた「ビキニ環礁水爆実験」(1954(昭和29)年3月1日)の影響を多大に受けた作品であるように、「シン・ゴジラ」(2016(平成28)年7月29日公開)もまた、「東日本大震災」の影響を大きく受けているのと同じです。
 ちなみに、アメリカ製ゴジラはどうしてもゴジラを「大自然の怒り」ではなくて「単なるデカいトカゲ」だと思っているところがあるので日本人にはピンときません。ミサイル撃ち込んで倒せるのはゴジラとは言えないでしょう。
 日本人にとってはゴジラというのは台風とかの自然災害みたいなものなので、人間の浅知恵ではどうにもならないのです。台風にミサイル撃ち込んでもどうにもならないでしょ?
 「シン・ゴジラ」で行われた「ヤシオリ作戦」は日本神話の「ヤマタノオロチ」を倒すための作戦ですが、「ヤマタノオロチ」は「川、水害」のメタファーとされており、やはり日本人にとっては怪獣というのは自然災害なのでしょうね。

 テレビシリーズが「阪神大震災」と同年に公開されたということを考えると、シリーズ中に「東日本大震災」を経験し、10年後に綺麗に完結したというのは不幸なことではありますが「時代と寝た」作品らしい推移だという気がします。

 いい加減「感想」に移ります。
 テレビシリーズで結末をぶん投げられた私が思ったのは「みんなあの後どうなったの!?」ということでした。
 正直、テレビを見る限りは「使途」だ何なのか、そもそもどういう結末に向かってるのか何も分かりません。
 今回だって、一応は「ゲンドウがユイを再生させるというエゴのために人類を滅亡させた」という、実も蓋もない記述をすることは出来ます。

 「Q」でじいさん2人しか住んでいない廃墟同然の「ネルフ本部」に半ば監禁されていたシンジに対し、「鈴原」のネームの付いた着替えが排出される謎のシーンのせいで、どう考えたってサードインパクトとやらで死んでいるとしか思えない鈴原トウジたち旧名前のあったクラスメートたちなどのキャラはほぼ生存していました。きっとこの辺のことは忘れてるんでしょうね。

 ともあれ、かなりいびつではあるものの「あのエヴァの続き」がやっと見られた・・・という感動がありました。
 1995年当時の自分に「2021年になったら続きがちゃんと見られるぞ!」と伝えてやりたい。

 そして、世紀末を無事に(?)通過し、震災を経てやっと気分が「復興」に向かって前向きになりかかっているところで公開された「エヴァンゲリオン」は、1997年当時には時代も視聴者も許さず、受け入れられなかったであろう「ハッピーエンド」と言って限りなく構わないであろう幕引きを迎えます。
 私としては、この結末を1996年のテレビの最終回は無理でも、1997年の劇場版として観たかった・・・と思わなくもありません。
 ただ、それは不可能だったでしょう。
 最もふさわしい時代に、最も望ましい結末を迎えることが出来た幸運なシリーズといえるのかもしれません。

 私も散々やった「細かい用語考察」だの「あの場面にはこんな意味があってここに対応していた」だのを今回やる気がないのは、

「庵野秀明がやれば何であれ、それはエヴァンゲリオンになるのであり、庵野秀明以外がやれば、それがどれほど『エヴァっぽく』あろうがそれはエヴァンゲリオンではない」

と思うからです。
 はっきり言って私も1996~1997年当時は山ほど「エヴァ小説」書きましたよええ。
 当時はワープロがギリギリあったくらいで、データも散逸して残っていませんが、自分なりに全ての伏線を回収し、矛盾なく破綻なくきれいにまとまったものを何作も書きました。
 でも、どれだけ綺麗に終わろうが、庵野秀明が紡ぎださない限り何の意味もないのです。

 ネタバレありありなので書きますが、今回、まるでアニメ本編の内容が「スタジオ撮影されていた」かのごとく舞台の書き割りの壁を突き破って「スタジオ」内にエヴァが転がり出て、そこでド付き合いを続けるシークエンスがあります。
 正に「メタフィクション」というところ。

 もしもこれをテレビでやっていたら大ヒンシュクで、今でいう「炎上」していたことでしょう。
 しかし、あの最終回を経て、あの「エヴァQ」の衝撃を経てきたのです。面構えが違う(AA略)。

 元々庵野監督はこういう「今見ているのがアニメである」ことに言及する演出方法を好む監督です。
 「夏エヴァ」で観客席を映した実写映像が有名ですが、97年のアニメ「彼氏彼女の事情」ではエンディングで延々と実在の学校の廊下を「シャイニング」ばりにカメラを走らせ、次回予告を実写で声優さんに顔出しでさせ、カメラの撮影台にセル画をセットするカメラマンの手を映り込ませる演出を行いました。
 これは噂ですが、問題の「25・26話」では監督が実写で顔を出して「間に合いませんでした。すみません」とやる案もあったとか無かったとか。

 私が口惜しいのは、今のこのご時世「壁を突き破ってスタジオに転がり出る初号機」について、VHSテープを何度も巻き戻しながら夜通し熱く語れる「あの時代」にこれを体験できなかったことです。
 確かに「生きていたトウジや委員長」は胸も目頭も熱くなります。
 しかし、「革命的なアニメの登場に我を忘れて熱狂していた」初のテレビ放送の時の熱気は今はありません。
 確かにいいアニメです。「シンエヴァ」は。
 しかし、ごくわずかなセリフの「てにをは」まで暗記してマウント取り合っていた「95年の年末」はもう戻りません。

 あれほど待ち望んだ「あの24話(19話?)の正式な続き」でありながら、「生きていたトウジや委員長」たちのことは、大量に毎日押し寄せるアニメに押されて明日はまだしも来週には忘れてしまうでしょう。
 いや、アニメで上書きされるならまだいい。
 きっと忙しい仕事に追われて「そういえば先週エヴァ観たっけ」程度にすぐになるでしょう。
 少なくとも、「あのテレビ版」ほど熱狂はしないでしょう。
 そりゃ確かにあれを見ていたのは10代の終わりごろでした。今は40代ですからね。

 ちっともまとまりません。
 書きたいことは沢山あるんですが。
 まあ、その多くはこの辺に書いてあるので興味のある方はどうぞ。

「だべり部 アニメ・ゲームその他について語りつくす!」
https://ncode.syosetu.com/n8452co/
「「新世紀エヴァンゲリオン」について 01」
https://ncode.syosetu.com/n8452co/71/

 ともかく、「浄化された」「癒された」「成仏した」のは間違いありません。
 今まで「夏エヴァ」以降「愛憎半ば」どころではなく「どうでもいい」だった作品が、遂に綺麗に消化できました。

 これ以上この記事長くするのもなんなので、またまとまりそうなら書きます。
 長文有難うございました。

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