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新しい恋人たちに

17年8ヶ月で、叔父になった。
高校3年生、18歳になる年の5月に、姉が出産して甥っ子が生まれた、という意味だ。名前は「はるた」という。はじめてはるたと対面したのは1ヶ月後の6月。赤ん坊にしてはあまり泣かない子という印象だった。でも、私が抱っこしたら下手くそだったのか、泣いた。

私は末っ子だ。下に弟や妹がいないので、いわゆる年下の子守りというのをしたことがない。ゆえに、昔から小さい子と触れ合うのが不得意だ。甥っ子を泣かせるくらいには抱っこが下手だし、オムツも変えたことがない。ミルクを飲ませたりご飯を食べさせたりなんてことはもちろん無い。抱っこしたら泣かせてしまう新生児のはるたを、仕方ないから頭撫でるだけにしたら、なんと指で押すと頭が凹むほど柔らかかった。触るのが怖くなるくらいだった。「小さい子が不得意」なのは、あらゆる「お兄ちゃん的行動」の経験がないからだ。でもまあそれだけでもなく、意思疎通が難しい子供は理解ができないと、理屈をこねくり回す頭の持ち主である自分は決めつけてしまっていたのかもしれない。それに昔から、親戚などの小さい子を目の前にすると、必ずと言っていいほど兄と姉からバカにされてきた。「末っ子だから抱っこできないよ」、「少しくらいお世話してあげたら?」と、苦手なことを押し付けられる感覚だった。そして、できないことを笑われた。そうやって少しずつ、「お世話の必要な子供が目の前にいる時間」が嫌いになっていった。それがいつしか「子供が嫌い」に変わりつつあった。でもそうなる前に、「子供が苦手」なことを笑われたり、お世話を押し付けられることが嫌いだったと気づけた。こういう気づきを「呪いを解く」という言い方を自分でしているんだけど、それはそれでまたどこかで…。

とはいえ、子供が欲しいか?と聞かれたらYESと即答はできない。憧れ的な意味で結婚ならまだしも、「子供が欲しい」とはっきり思ったり感じたことはない。「自分が親になる」ということが考えられないと言った方が的を射た言い方かもしれない。


7月クールの月9「海のはじまり」を見ている。
学生時代恋人だった水季(古川琴音)の葬儀に参列した夏(目黒蓮)が、実は自分には海(泉谷星奈)という7歳の娘がいることが発覚することから物語が始まる。夏は妊娠を知らなかったわけではなく、中絶の意思を2人で決めたのに、実は水季が手術を断り、出産していたという背景だ。夏は27歳、私と同世代だ。ある日突然自分に娘がいると知らされたら、それこそコウノトリが運んできたような話というか、青天の霹靂すぎる。企業に就職して正社員として定職に就いている夏と学生の自分とでは社会的な立場がまるで違うわけだが、いくら収入があるとはいえ、突然子供を引き取るなんて考えられない。そもそも海と、その保護者である祖父母は、大事な家族を失ってすぐなのだ。そんなところに突然父親が表れたのだ。大事件だ。もちろん夏は「無責任だ」「今さらなにを」「知らなかったからで許される話じゃない」と各方面から糾弾される。そのうえ今の夏には付き合っている弥生という恋人がいる。有村架純が演じていて、月9の出演は8年ぶりだそうだ。8年前の月9は「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」で、そこでも有村架純は悲劇的な状況にあるヒロインを演じていた。「月9の有村架純は幸せになれないのか」と感想が呟かれていた。そういえば「いつ恋」の登場人物のなかに「はるた」という青年が出てくるが、姉(母)いわく、甥っ子の名前の由来のひとつでもあるらしい。話を今の月9に戻そう。元恋人の死を受け入れられないなか、娘の存在に困惑し、四方八方から責められる夏だが、「なにもできない」と開き直るわけではなく、「父親やります!」と根拠のない自信を振りかざすわけでもなく、まじめに愚直に、「父親」としての自分を受け入れてもらおう、認めてもらおうと努力を始める。海の親代わりとなったおばあちゃんの朱音を大竹しのぶが演じる。海と同時に突如として夏の人生に登場する義母が大竹しのぶって怖すぎるだろ。思った通り朱音には最初、「父親になるなんて言わないですよね?」と突っぱねられていた夏だったが、だんだんと関係は良好に落ち着いていく。海と遊びに行くことになり、朱音からこんなことを言われる。

「食べ物のアレルギーはないです。水筒持たせたから、ちゃんと水分とらせて…。」
「練習っていうのは嫌だけど、でも、練習してください。親って子供のなにを持ってて、なにを知らなきゃいけないのか。」

練習。そうだ。できないことは、練習するしかない。そう思うしかない。そしてそうやって言ってくれる朱音が、なにも知らない自分には、とても優しい人に思えた。


ドラマが始まったころの7月のある日、姉から連絡があった。

「お盆休みに帰省するから、はるたと一緒にウルトラマンフェスティバルに行ってくれない?」

小学2年生、8歳になったはるたはウルトラマンにどハマりしている。毎年夏に池袋のサンシャインシティで行われているウルトラマンのイベントに行きたいらしい。自分もはるたくらいの年齢のときウルトラマンが好きだったのもあって、連れて行ってあげてほしいというリクエストだった。
九州に住むはるたとは頻繁には会えない。今回も数年ぶり?だったと思う。会うたびに大きくなって、いつの間にか喋れるようになり、いつの間にかオムツがとれていて、いつの間にかランドセルを背負ってるし、いつの間にか電車や新幹線からウルトラマンに興味が移っていた。小学2年生ともなれば、私の不得意な「お世話の必要な子供」でもない。ウルトラマンの話で一緒に盛り上がれる友達みたいなものだ。私はウルトラマンフェスティバルに1度だけ行ったことがあって、懐かしさもあった。そしてなにより、「練習」な気がした。ドラマでも、夏が1日海を外遊びに連れ出し、それを大人たちは「練習」と呼ぶ。幼い子供と過ごす練習だ。ドラマで夏の今の恋人である弥生がはじめて海と会ったとき、子供が好きで得意な弥生は、祖母の朱音が迎えに来るまでの子守りに際して、海にこう言った。

「おばあちゃんを待ってるんだ!じゃあ、それまで、お姉ちゃんの遊び相手してもらっていい?」

これだ!と思った。私がはるたに遊んでもらえばいいのだ。いや、もちろん子守りなんだけど、なんとなく、今まで子守りっていうのは何をすればいいのか分からなかった。かつてウルトラマンにハマっていた先輩として、現役のウルトラマンファンのはるたに遊んでもらえばいい。遊んでもらうというか、一緒に遊ぶ。それならできそうだと思って、姉からの誘いを快諾した。


海のはじまりの主題歌は、backnumberの「新しい恋人たちに」である。backnumberを好きになったのは、はるたが生まれる少し前くらいだから、8年くらいはずっと聴いている。花束、高嶺の花子さん、ヒロイン、クリスマスソング、瞬きなどなど、キュンとしたり切なかったりするラヴソングの数々が彼らの代表作なのは間違いないが、2018年ごろから、ラヴソングじゃない曲たちがより魅力的に聴こえるようになった。2014年~2016年くらいにかけて、ラヴソングがヒットし、映画ドラマCMのタイアップを次々にこなし、国民的にブレイクしたbacknumberだが、本人たちとしては「冴えないバンドマン」という感覚を大事にしていて、そんな変わらない自分たちと、世間が認知するbacknumberというバンドの輝きにギャップが生じたのだろう。

「イビツな形だから 光ったはずなのに 人と違うから 作れたはずなのに」
 ARTIST(2017)
「同じ材料で お馴染みの作業で 
 作れるんなら全部同じにしといてよ」 ロンリネス(2018)
「盛れば いつかは衰える
 興味ないね そっちはそっちでやっとくれ」
 エキシビションデスマッチ(2019)

曲が売れて、大きな会場でライブができるようになって、でも自分たちは変われてなくて…そんな苦悩を歌ったであろう曲たちが2017年~2019年にかけて多い。そうしてbacknumberたちが導き出した答えは「変われなかった部分こそが、自分を自分たらしめる「ユーモア」である」というものだった。2023年にリリースされたアルバム「ユーモア」にはその答えが詰め込まれている。人それぞれが持つユーモアを肯定してくれる曲たちだ。曲に浸り、3人のメンバーが話すラジオを聴き、雑誌のインタビューを読み漁るくらいにゾッコンだった私は、ラヴソングでヒットしたbacknumberの第一章は終わり、アルバム「ユーモア」をもって第二章が始まったと感じている。そんなbacknumberが、海のはじまりに対して、「新しい恋人たちに」を書き下ろし、作詞作曲の清水依与吏がこんなコメントを発表した。

「新しい世代を目の当たりにした時、そして命の誕生を目にした時、ふと“もうバトンを渡さないといけないんだろうな”と感じます。とはいえこれがなかなか簡単にいかない。自分の人生をあきらめられない。でも心から大切にしたい、とも思う」


小学2年生の夏休みのことだ。親戚がカブトムシを家に持ってきてくれた。そこから昆虫少年になり、自然科学の分野で研究する大学院生の現在までの道が繋がった。有難いことに、自分の好きなことだけを優先していい環境で育った。ずっと、自分のしたいこと、なりたいものに一生懸命であっていい人生だった。そしてそれを応援してくれる人ばかり周りにいたし、今もいる。本当に有難いことだ。それでも、まだまだ努力が足りない、なりたい自分になれていないと、憧れに向かって成長し続けるんだと思ってここまで来た。ところがここ2~3年、それこそbacknumberの第二章が始まったと同時に、「これまでの自分の人生を、失敗したことも成長しなかった期間も含めて肯定してあげていいんだ」と思えた。「得られたものと得られなかったものをフラットに見えるようになって、得られなかったものへのないものねだりより、得られたものを誇る人生のほうが素敵」と思えるようになった。こう書くといい事に聞こえるかもしれないが、明らかに成長意欲が減った。その頃から大学院の研究で上手くいかないことが増えたのも原因かもしれない。行き詰まったところで、ちょうど自己肯定ができる心理状態になったために、続いてきた道を「もういいや」と思い始めてしまったのだ。「諦め」といえばそうなのかもしれないが、理屈の通った言い訳ができてしまうというか、「辞める理由が完成してしまった」感覚があった。依与吏さんのコメントの「もうバトンを渡さないといけないんだろうなと感じます。とはいえこれがなかなか簡単にいかない。自分の人生をあきらめられない」の部分にため息をつきながら頷いた。自分の道を諦められても、なにしろ自分の好きなことだけしてきた人生だったのだ。なかなか他人が入る余地がない。端的に言って、私はケチでワガママなのだ。その弊害もだんだん増えてきて、自分の人としての足りなさを自覚してきて、与えられ続けた人生から、与える人生にシフトしていかなきゃいけないタイミングなのかもしれないと思っていた。別に結婚願望が出たとか、子供が欲しくなったとかそんな話ではない。今までの人生を肯定できるようになったからこそ、今までの人生では通ると思っていなかった道で得られる幸せは、どんなものなのか知りたくなった。(自然科学の研究を続けて、なりたかった自分になれた未来で、その幸せが手に入らないわけじゃない。自分の考え方が不器用なだけだ。)

「光が閉じるように 会えない人がまた増えても
 大人になれなかった それを誰にも言えないでいる」
「素敵なものを 大事なものを 抱えきれないくらいに もらったのに」
「頼んだ覚えは無くても 守られてきた事は知ってる
 自分じゃできやしないけど 君には優しくあれと願い 祈る」
「張りぼてに描いた虹でも 手垢にまみれたバトンでも なにかひとつ
 渡せるものが見つけられたら 少しは胸を張れるだろうか」
新しい恋人たちに(2024)


8月14日。はるたと電車に乗ってウルトラマンフェスティバルの会場であるサンシャインシティに向かう。池袋駅で下車。いつもの癖で考え事をしてしまう。池袋…有村架純…そういえば高校生のとき、サンシャインの映画館で、有村架純が出てたストロボエッジを観たな…。とか思いだしてしまう。いかん。感傷に浸ってる場合じゃない。今日ははるたの保護者であり遊び相手なのだ。少なくともケガや事故なく過ごさなければならない。「お腹痛くなったり、気持ち悪くなったり、トイレ行きたくなったら、すぐお兄ちゃんに言うこと。約束ね。その約束だけ守って一緒に遊ぼうね」。ドラマから弥生さんの一緒に遊ぼうのセリフを拝借して、はるたに言ってみた。彼も少し不安そうだったけど頷いてくれた。おそらく人生ではじめて使った「お兄ちゃん」という一人称の、慣れてなさが伝わってしまったのかもしれない。
暑い日なので徒歩時間短縮のために、池袋駅から東池袋駅までの1駅さえも地下鉄で移動する予定になっていた。JR線から東京メトロに乗り換える際に、また切符を買わなければならないことに気づく。やばい。切符を買っていたらYahooの乗換案内アプリで事前に調べた予定の電車に乗れない。小学2年生を連れてたら走るのも無理だ。1本諦めて次の乗り換えを検索したらメトロの別の路線を提示してきたりする。とてつもなくめんどくさい。これまでは、スマホで30秒で目的地までの乗り換えを調べ、あとは改札にSuicaをタッチして、指示通りにホームに行って、急げば走ればいいし、座れなくても最悪立ってればいい。それはすべて1人だったからできることだったと気づかされる。疲れた小学2年生は30分電車で立つのも辛そうだ。優先席が空いてることがどれだけほっとすることか、はじめて実感した。席を譲ってくれた高校生~大学生くらいの3人組もいた。ありがとう。世の中捨てたもんじゃないってちょっと思えたよ。
事前に余裕を持った計画を姉と一緒に立てていたので、滞りなく、元気にウルトラマンフェスティバルを楽しめた。はるたはウルトラマンや怪獣の着ぐるみ展示やウルトラマンとの写真撮影やヒーローショーを存分に楽しんでくれた。ウルトラマン好きだった私も楽しめる内容だったけど、連れていった甥っ子が楽しんでいる姿を見るというのは、やはりこれまでにない感覚だった。それが喜びなのか安堵なのかはよくわからないけど、ネガティブな感情ではないのは確かだった。とはいえ、はるたは自分の子供じゃない。親子となると、また抱く感情も違うだろうし、時には叱ったりもしなきゃいけないし、親が楽しむ余裕なんてなかったりするんだろうなと思う。自分の好きなことだけしてていい人生の楽さもまた見えてくる。

ウルトラマンや怪獣や宇宙人たちがジオラマとともに
展示されているエリア
ショーではみんなで一緒にウルトラマンを応援した


「閉じた絵本の 終わりのページで
    これは 誰の人生だ
                誰の人生だ
                誰の人生だ
                誰の人生だ
                誰の人生だ」

「新しい恋人たちに」の大サビである。叫ぶように連呼する依与吏さんの歌声が、ずーっと頭のなかに流れていた。まだ正直分からない。親になるというか、自分より優先したい誰かと一緒に生きる人生が、どれほど豊かなのか。これまでの自分軸の人生を捨てることができるのか。海のはじまりは、そんなふうに登場人物たちの人生が変わるなかでの、意識の移り変わりが本当に丁寧に描かれていて、それがこれからどうなっていくのか楽しみだ。

私がカブトムシに出会ったのが小学2年生の夏休み。今のはるたの年齢だ。この日の出来事が、この子の今後18年を左右するかもしれない…なんて想像もしたが、大袈裟だった。というかそんな余裕は無かった。とにかく、ほぼ計画通りに行程が進んで、無事帰ってこられたのでなによりだった。そして、いつまでもウルトラマンは憧れのヒーローだった。


私の小学2年生のときといえばもうひとつ、忘れられない思い出がある。同じクラスに好きな女の子がいたのだ。帰りの電車で、はるたに聞いてみようかと思ったが、歩き疲れて眠ってしまっていたので、またいつか聞いてみることを楽しみにしておこう。


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