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自己診断難民の私が出会ったもの


自己診断、というものが苦手だった

問われたことに対してスパッと
「はい」「いいえ」で答えきれなかったから

そう言われてみれば、そうだという気もする…

そんなときもある気がする…

「どちらともいえない」という回答の多さに
自分でも毎度ガックリしてしまう

何とかすべてに答え終わった後に出た診断結果も
「うーん、そうなのかな」

ふと思い出した後日、再度回答してみると
案の定、違う結果が出ることが多い

私には「軸」がないようだ、
ということだけ判明するのだった


1対1で対面するものも苦手な方で

特に初対面の相手から
色々聞いてもらったとしても

「せっかく向き合ってもらってるのだから
この時間内になんとか着地させなくては」と

いらぬ気を使うことに集中してしまうばかり

「今後の課題が見えたような気がします。」
「ありがとうございました」

と言って終われると、
やっと一安心するのだった

これはもちろん
お相手の方に問題があるわけではない

自分の過剰な気遣いというのか
他者との間に自ら立てている壁のせいだ

自分のことを掘り下げるために
診断や人に頼っているのに

「ここからは立入禁止です」と
追い払っちゃっているような感じ

自分の軸のなさと
他人に関わってもらうことへの申し訳なさ

これらによって
芯の部分には近づくことができずにいた

こりゃ、自分が悪いんだからしょうがない


そんな私ではあるけれど
去年から継続して
「アクセスバーズ」という施術を受けている

とても良いと思ったから継続でお願いしているのに

積極的に人に勧めることができなかった


理由は

アクセスバーズ自体のことも
それを施術するあやさんという人物のことも

的確に良さを伝えられる自信がなかったから

安易に出した言葉で
誤解されてほしくない

だからこそ
うまく表現できないうちは辞めておこう、と
しまい込んでいた

今回4度目の施術を受けて

やっぱり言葉にしておきたくなったので
書くことにした

アクセスバーズというもの自体については
検索すると出てくるので割愛

私が書きたいのはそういうことじゃない


人って誰でも
背景、ストーリーがある
誰かしらの人と生きている

持って生まれたものがある

それって一体何なんだろうと思ったとき

私のように
いくら核心を突くような質問をしてもらっても
いくら脳科学から編み出された問いがあっても

何か反射的に壁を作ったり
良い感じにまとめようと繕ったりしてしまうし
その時のコンディションに左右される

迫れたようで迫れてない
そんなこと多々あるんじゃないだろうか

そこに、あやさん

この人については
感じとれる人と言えば良いんだろうか

さらに
それを豊かな言葉にして並べて見せてくれる人

その人の本質に迫ることに喜びを感じる人で

キャッチしては
よっしゃ、あったよー!って
満面の笑みで走って見せに来てくれる

見せてくれたそれは
確実にわたしの欠片だった


「見える人」と捉えられてしまうと
離れていく人もいるかもしれない

それも今まで勧めることができなかった
理由の一つ

私、そういうの信じる!
ふうん、うさんくさいなぁ…

いろんな人がいると思う

そういう時
アインシュタインの言葉を思い出す

人生には、二つの道しかない。
一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。
もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。

私は後者でありたい
というか、
あやさんによって後者になれたと思う

『人生楽しんだら良い』
『今あるものに感謝を』

何度も何度も目にした言葉
わかってるよ!って何度も思った

それが今になって
全然わかってなかったことに気付いた

たぶん
今、本当にわかったから


最後に

数秘、アクセスバーズどっちがいいの?
と聞かれたら

「どっちでもいい」と答えると思う

だって

このあやさんって人と
あーだこうだと語れる時間に意味があるから

それが何の形かは関係ない、と
心底そう思っている





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