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3/17 銀座線

銀座線に乗ると大学から社会人にかけて3年半ぐらい付き合った人とのことを思い出す。別れた後最後に荷物の受け渡しをして渋谷から浅草まで泣きながら帰ったあの日の記憶は今でも鮮明だ。

仕事が忙しくてもう会社も辞めるしかないんじゃないかと思った時に、私はもうこの人に頼る人生を辞めなきゃいけないと思って別れを告げた。あっさりと別れを受け入れたその人への物悲しさを感じながら、最後に荷物の受け渡しの約束をして、渋谷駅で会って元気でねと握手をして笑顔で別れた。

もう振り返っちゃいけないんだと思って、思えば思うほど泣けてきてしまって、私はその人のことを本当に好きだったんだと気がついた。長い階段を登って渋谷始発の電車に乗って終点の浅草まで帰る途中、隅っこの席でずっと私は泣いていて、今からでももう一度会おうと言えばいいんじゃないかと何度もLINEのトーク画面を開いては閉じることを繰り返し、浅草に着いて席を立った時にこの恋愛が終わってしまったんだと思った。大切なものを自ら手放してしまうほど私は追い詰められていて、心の中に残ったのはそんな弱い自分への憤りだけだった。そうこうしているうちに銀座線の渋谷駅は改装されてしまって、元の形も思い出せないような綺麗な駅になってしまった。


ずっと自分の思いを言葉にすることが苦手だった。こうして文章には書けるのに目の前にいる相手に伝えようとすると言葉よりも先に涙が出てきてしまって、いつだってうまく話すことができなかった。今でも誰にも見せられない下書きが無数に書き溜められていて、こういうものを素直に表現できるような人への憧れや軽蔑を私はずっと胸に抱えたまま生きてきている。

それでも歳を重ねるごとに今は踏ん張って話すんだと思い行動できるようなことが増えてきていて、そういう経験をする度に私は過去の自分を救ってあげたような、そんな気持ちになる。


最近はいつ死んでもいいなと思う。その度に自分という存在がなぜ生きているのかが分からなくなり、心臓ってなんで鼓動し続けているんだ?というところまで考えて、そして最後はどうしようもなく醜くてもいいから生きていたいと思ってしまう。

今の人生はとても楽しくて、自分の意志で選びたいものを選び取り、そのために誰かの想いや存在を利用するようにもなった。それに対して何も思わない訳じゃないけれど、うやむやした感情をうやむやにしたまま、まあそういうこともあるよね、と考えることでなんとか折り合いをつけて生きている。

それはどうしようもなく自分や誰かを傷つけているのかもしれない。そんなことにはとっくに気づいているけれど、今の私はそう言ったものに無自覚でいられるように努めているんだと思う。それができるようになったのは人間としての成長と言えるんだろうか。

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