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2/4 父

家族のことについて書くのは私にとって気が乗らないことのひとつだ。どこから話すべきなのかも分からないし何を切り取って書くべきなのかも分からない。

別れてから唯一号泣してしまったのは両親と話した時だ。昔会社を倒産させて、数千万の借金を背負った父親から「結婚のお祝い金を用意していた」という話をされて、どんな想いでこのお金を貯めてくれたのかと考えたら胸が張り裂けそうな気持ちになった。


私の父は幼い頃から会社を経営していて4〜50人ぐらいの従業員を抱えていた。父は単身赴任で出張も多く「父親」という存在は月に1〜2回しか会えないものなのだと幼い頃は認識していた。

中学一年生の夏の日の夜、母親に話があると呼び出された。兄が気まずそうな顔で自室に引き上げて行ったので私は何か怒られるんだと思って身構えていた。そこで告げられたのは、父親の会社が倒産したということと、この家や資産を守るために両親が離婚したということの2つだった。「首の皮一枚で繋がっている」という言葉を両親がよく話していた。1〜2年前から両親の喧嘩が増えていた。その度に兄と目を合わせてそっと部屋を去り「どうしようね」などと話をしていた。ただそんな言葉がこの事実に繋がっていることなど幼い私には到底予想することなどできず、いざその事実を伝えられても何を言っているのか意味がわからなくて、ただただ悲しくて「いやだ いやだ」と机に突っ伏して泣いていた。母が何か言ってくれることを期待していたけれど「ごめんね」と謝るばかりで、それ以上の言葉はなかった。

翌日から、何かが変わるような気がしたけれど、何の変哲もない日常が続いた。数ヶ月前に合格したばかりの中高一貫校に通うために1時間半かけて電車で通学をし、最近仲良くなったばかりの友達といつも通り話をする。自分がよく分からなくなっていた。誰かにずっと嘘をつき続けているような感覚だった。

しばらくして父が単身赴任先から帰ってきて家にいるようになった。幸い再就職先はすぐに見つかったようで毎朝スーツを着て出勤していた。数ヶ月後、家族共用PCのメールボックスをふと眺めていると、父が既に再就職先で働いていないこと、知り合いのツテで仕事を紹介してもらおうとしていることが書かれたメールを見つけてしまった。見てはいけないものだということが咄嗟にわかった。そっと未読に戻し見て見ぬフリをした。

翌日からも父は朝食を食べ、朝どこかへ出掛けていく。この人がどこへ出掛けているのかも分からない。離婚したにも関わらず父と母は一緒に住んでいた。親権は母の方にあったが、私は苗字を変えていないので一見すれば何の変哲もない普通の家庭だった。何一つ本当のことがそこに無いことは分かっていた。誰にも言えなかった。言えないまま一年ぐらいの時が過ぎた。母から父が転職したことを告げられた。驚いたフリをしてその場をやり過ごした。自分がやっと解放された気持ちになった。

後から聞いた話だがその時母は父に「たとえ職がなくてもスーツを着ていつも通り出勤するフリをして欲しい」という話をして、そして父はハローワークに通ったり図書館に通ったりしていたらしい。この話を聞いた時、これが愛情というものなんだと思った。親が子を持つことの責任とも言えるのだろうか。

その後世間はリーマンショックの煽りを受けていて、例外なく父も職を転々とした。私が高校生の時に父はファミリーマートでアルバイトをしていたことがある。母と私の用事のついでに父の職場まで車で送って行った時にしばらく駐車場で母と話しながら父が働く姿を見ていた。父は有名な大学を出て社長までやっていたのに、今はコンビニなんかでレジ打ちや品出しをしているという事実がどうしても受け入れられなくて、それをすごく恥ずかしいと思っていた。

母が「家族のためにいらないプライドは捨てなきゃいけない。それが生きるということ、親としての責任を持つこと」という話をしてくれた。煌々と照らされた店内で忙しなく働く父の姿をその時の私は直視することができなかった。高校生の私にはその事実は受け入れられなかった。マクドナルドでバイトしている私とさして変わらない時給で働く父を受け入れることはその時の私にはできなかった。父と会話をしなくなって数年が経っていた。周りには「父はいない」と言っていたし、私はもうずっと「お父さん」などという言葉を発していなかった。



学生時代から社会人にかけて写真を撮ることを仕事にしている人と付き合った。その人はフィルムカメラが好きで、そういえば父が昔よく写真を撮ってくれていたな、と思い出して実家に帰った時に物置を探した。するといくつかのフィルムカメラが転がっていたので勝手にそれらを持ち出して自分の家へ持って帰った。電池を入れ替えたら普通に使えたのでいつもデートの時は持ち歩くようになった。その人から「写真好きは遺伝したんだね」と言われた。ふと考えると私の趣味は父から影響を受けているものばかりだった。

父は今もボーイスカウトのリーダーをやっていて、私もなぜかガールではなくボーイスカウトに幼い頃入れられた。昔から週末は山に登ってテントを建てたり釣りをしたりしていた。ずっとアウトドアなことが好きで、社会人になってからはキャンプにもハマっていた。そんなところも一緒なんだと気がついた。新卒で入った会社も不動産に関わる仕事で、父が長らく携わっていた建築系と近い分野だった。あんなに嫌いだった父の影響を私は強く受けていた。

社会に出て働く中で色々なことが見えるようになり、昔よりも多くのことを受け入れられるようになった。ファミマでバイトをしていた父の姿を思い出す。家族のためにプライドも経験も学歴も全部捨てられる人はどれだけこの世にいるだろうか。自分を犠牲にしてでも家族のために働く父の姿こそが本当の愛情なのだということをやっと私は受け入れることができた。受け入れるまでに長い年月が必要だった。

その後は私と父は昔よりは歩み寄りながらも、すれ違うような日々が続いていた。10年以上ぶりに2人で美術展を見に出掛けた時も、観たい作品も違えば、その後に入った喫茶店で「クリームソーダはもう好きじゃ無いのか」と中学生の時にハマっていたものの話をされ、この人とずっと会話をしてこなかった年数を思い知らされた。

私は父の愛情を素直に受け止めることがまだどこかむずがゆく、難しいことのように感じる。彼とはたった一言の言葉で別れてしまった。家族というのは例えどれだけ拗れて、うまくその線がつながらない時があったとしても、特別に切れない何かがあるんだろうか。


彼を連れて行った時の父は本当に嬉しそうだった。まだ身体に馴染んでいない服を着ているのを見て、この日のために気合を入れて新調したんだろうなあと考えていた。
別れた報告をしてからはまだ顔を合わせていない。父はずっと私の身体を心配しながらも私の意志を尊重してくれようとしている。


彼は別れる時に「自分を犠牲にしてもいいという君の考え方は変わらない。だから結婚はできない」と言った。私はそれでもうまく擦り合わせられるところが見つけられるんじゃないかと思ったけれど、確かに彼の言うとおりなのかもしれない。酒癖の悪さを棚に上げるつもりはないけれど、この考え方自体は変えられないと思った。私が見た父の一番格好いいと思う姿がファミマで働いていたあの瞬間なのだ。大事なもののために自分のプライドも全部へし折れるような人じゃないと私は一緒に生きられないんだと思う。これはどちらがいいとか悪いとかではなく、単純に生きることに対して考え方や価値観が違ったと言うことなんだろうな。もちろん自分が幸せな上に周りが幸せである方がいいと思うけれど、そうしなければならない瞬間にはこれからも自分を犠牲にする選択肢をとってしまうんだろう。そうやって周りから愛を受けてきたし、だから私はそういう生き方しかできないのかもしれない。それがいいのか悪いのかは、今の私にはまだわからない。

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