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わたしを映すただひとつのもの

鏡を見て「ああ、自分はこんな顔だったか」と思い出すのがわたしの日課だ。自分の顔を頭の中にとどめておけない。


以前、毎月ふたりの親友たちと遊んでいた頃は、全員が自分以外の写真を1日100枚単位で撮っていた。わたし以外のふたりは単に楽しい記録を残そうと撮っていたのだと思う。帰り道、わたしは写真を見るのが待ち遠しかった。

共有に苦労するほどの量の写真の中には、想像しなかった自分の姿がたくさん写っている。目をぱっちり開けたはずなのにまったく開いていなかったり、自分が思っているより太って写っていたり、苦労したコーディネートが似合っていたりいなかったり。

「人間の目は騙されやすい」

これは美術を学びはじめたときに確か真っ先に習ったことだったけど、「騙し絵」を見て目と脳が食い違うのは本当に不思議な体験だ。同じように、自分の姿を鏡に映して見た姿は自分の都合のいいように認識される。だからいつも写真を見てびっくりする。特に他人の撮った写真だと顕著だ。

そんな風にわたしはよく自分がわからなくなる。外見だけでなく、昨日ほぼ日手帳に書き残したことも、確かに自分の筆跡なのに現実味がない気がする。記憶は正常なのに。自分という存在を見つめようとすると騙し絵のように目が滑るからわけがわからなくなる。


でも、こんなわたしを唯一現実に引き留めて、「それは騙し絵だよ」と気づかせてくれることがひとつだけある。それは「なにかをつくること」だ。

わたしは絵を描き、文章を書き、歌を歌う。仕事としてつくる場合はもちろん先方の要望を汲んでつくるのだけど、自由につくっていい状況なら、気分に合わせて自分のやりたいことをできる範囲で心の赴くままにやっている。今これを書いているのもまさに、そんな形だ。

他の人がどういった気持ちでなにかをつくるに至っているのかあまり聞いたことがないけれど、わたしの場合はつくったものが全てであり、つくったものが自分を映す「鏡」だ。

ただ無心につくったものが、結果的に何かのメッセージになっていて自分で驚くことがある。狙ってメッセージを表現するときには起こり得ない体験だ。

そんなとき、「ああわたしはこんなことを思っていたのか」と作品に教えられる。自分の心の形を作品に教えてもらうのだ。よく作品はクリエイターにとって子どものような存在だというけれど、わたしにとっては作品が親や先生のようだと思っている。


不安定な自分を確認することは、壁打ちのようでもある。中学生の頃、ソフトテニスのぷにぷにやわらかいボールを学校の壁に向かってラケットで打ち続けた。強く打つと同じだけ強く跳ね返ってくるし、弱く打つと弱く返ってきて取りに行くのが大変だ。角度も、高さも、気をつけなければいけない。

そうやって、つくったものが自分を振り回したり難しい面を見せてくることもある。問題作をつくってしまったのではと悩んだり、発表して思わぬ反応をもらうこともある。それも含めて、「確認」なのだと思う。つくったら自分で確認して、発表して反応をみてまた確認して、そうやって自分が何者かという断片を集めていくと、コラージュのような自分ができてくる。


だから、わたしは心が安定していないときこそ、つくらなければという気持ちに駆られる。鏡を見なければコーディネートやヘアメイクを確かめられないように、ものをつくらなければ安定した心で外に出られない。

だけど、ときには外に出るためだけではなく、自分のために裸になった姿も鏡で見ておきたいな、と思う。裸には嘘がない。たぷたぷの二の腕も隠せない。裸の絵を描くのだって恥ずかしい。だけど思い切って描いてみたら自分の裸の心が見られるかもしれない。

この文章に添えた絵を描いたときもそうだった。普段かわいい感じの絵を描いているときは何も言わないわたしの師匠が、珍しく連絡をくれた。「この絵はいいね、嘘がない感じがする」。恥ずかしい自分を出して認められた気がして嬉しかった。

自由につくる作品はわたし自身で、わたしの鏡だ。だからわたしは、表現は変わることがあってもつくることをやめないと思う。それは毎日鏡を見るのとなんら違わない、自然なことだ。


この文章はここまでで全てですが、気に入ってくださった方は購入してくれると嬉しい感じの投げ銭方式です〜〜!100円チャリンとしてくれると、わたしのおやつ代になり制作が捗ります٩( ᐛ )وスキ・コメント・シェア・サポートなどもとても嬉しいです〜!!いつもありがとうございます(^ω^)!

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