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今までより一口だけ「誰かのために」

有料マガジンをはじめたものの無料記事も書いたり、詩を書いてみたり、よくわからなくなっていたけど、もう一度有料マガジンに固定してみる。年の瀬、世の中の様子を見ていて何度も「そうか、年末だった」と思い返す。昔からイベントごとに冷静になってしまうタイプだった。楽しい雰囲気や人が楽しんでいる様子を見るのはとても好きなのだけど、楽しんでいる人たちを少し遠くから見る方が性に合うのかもしれない。

今年の夏に髪をまた念願の金にして(地毛は黒だけど、前に金髪にしたことがあるのもあって「戻った!」と思った。秋に更にブリーチして、色素がガチャガチャ変わったけれど、気分はいい感じ。見た目で、いわゆる「変わっている」の代名詞的なことをするのはわたしは好きじゃないんだけれども、そういうイメージに寄せておくことでこんなにも人の反応が違うものなんだなぁ、と思った。ただ図書館で声かけてくれた歳上の女性は、ビビらせてしまったようでゴメンナサイ…

今年はずいぶんいろんなことがあった。今年も、かな。今これをキッチンの足下のホットカーペットに寝転びながらスマホで書いてる。吉本ばななさんの「キッチン」を読んだのがだいぶ昔で内容をほとんど忘れてしまったんだけど、なぜ1番落ち着くのがキッチンだったんだっけ、とか考えてみる。わたしも落ち着くからこうして書いているんだけど、理由がよくわからない。ただひとつ分かるのは、愛猫がホットカーペットにつられて来るので、一緒に過ごせて嬉しいってこと。

最近、学生の頃あまり得意じゃなかった世界史の本を読み始めてみたりしている。外国語を使う友達がまた増えて、ついでにそこの母語を教えてもらったりしていたのだけど、わたしがもともとやっている言語の文化圏との関係は知らないとまずいことがかなりあると思う。それは日本語でもそうだし。前に、このあたりが不勉強だったので行き違いを起こしたことがあった。

ずいぶん今年はいろんなことに抗おうとしたなぁ、と頭に浮かぶだけでもしみじみしてしまう。もともとわたしは自己主張するのが好きじゃない。変に考えすぎてしまう頭の回転が強い感情に乗ると人を傷つけてしまうし、反動で自分がやられてしまうこともある。でもかといって、自分が疑問に思っていることを抑え込んでいると思考の曲がり角がグサグサと鋭角になって自分を責める方向に変わってしまう。もちろん思ってることを全部言えばいいわけじゃない。その判断をするのにもだいぶ考えるし、ミスもしてしまう。怖い。それでも言葉にしなければいけないと思うことはどうしてもある。

別にわたしは社会的な活動を中心にしているわけでもないし、自分の生活は楽しくしていたい。自己犠牲的になっているつもりもない。だけど、今まで苦しいときに話を聞いてもらうことが難しかった場面を思い出すと、わたしの少しの行動が誰かのために少しでも働きかけることができるかもしれない、とも少しだけ思う。そしてまた、自分勝手になっていないか、色々考える。そういう「考えすぎ」も昔から周囲の人たちによく嗜められていたから自分の短所だと思っていた。でもだんだんと周りに「すごくたくさん考えられるね」と言ってくれる人たちもいてくれるようになった。やっぱり取り扱いはうまくやらないと、強すぎる時はあるのだけど。

なかなか難しい。個人的な思い出と、自分から見て疑問に思うことと、人の意見と、ぐるぐる。でも、わたしは考えることをしないでアートをするのは、一番やりたくないのだ。よく「感性を使う」ということは「考えない」ということとイコールで結びつけられがちだけれど、わたしは違うと思っている。自動で発動するところに関してはもちろん何にも言えないけれど、公に出すなら考えていないとだめだ。

感性を使うときに邪魔だと思われやすいものを突き止めるのもまた、考えることが必要だと思っている。絵を描くのが怖い。なんでだろう。昔に先生に評価をつけてもらえなかった。そういうことがあったとしたら、じゃあ写真を撮ってみようかなでもいいし(写真が簡単ということではない)どうしたら楽しく絵が描けるかでもいい。とかいってわたしも美術の成績はたいして良くなかったけど。

小さい頃から漠然と「なんでみんなこうしているんだろう」と不思議に思うことが多かった。聞いてみても的を得ない場合はあれこれ見たりしていた。そういう目線は今もまだ強くあるみたい。それで「パスタ上から見たらマリーゴールドだった🌼」(写真)とか、そういうものも見つけたい。

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