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人のつらさを他人が決めない

「生きるのがつらい」ってすごく言いにくいことだと思う。

すぐに「あなたは恵まれてるじゃない」って言葉が返ってくるんじゃないかと怖くなってしまい、それを想像すると「つらい」って言葉を口にする勇気も出てこなくなってしまう。


まずは、自分の生きづらさについて。

わたしは、幼い頃から生きづらさを感じて持て余してきた。よく気持ちの落ち込みに悩み、人に相談したりしていた。でも、原因がわからなかった。わたしはごく普通の家庭で、家族に愛されて育ってきたから。あえて言うなら母親が忙しく仕事をしていたから小さい頃さみしかった、というくらいだと思っていた。

20代に入り心身のバランスがとれなくなってきた頃、心療内科に相談した。それから試行錯誤を経て精神疾患の診断が下り、今は診察とカウンセリングを受け続けている。

ただ、治療を受けてもなかなかすぐに改善するものではなく、特に「生きづらさ」にはどうにも折り合いがつけられないでいる。

カウンセリングでは幼少期にわたしはもっと愛されたかったのだということに気づいてきた。でも、両親は間違いなくわたしを愛してくれていたし、例えば虐待のような目に見える問題もなかった。わたしはのんびり実家で生活していたし、今も夫の多大なサポートを受けて一緒に生活している。それでも生きづらさは消える気配がない。


「生きるのがつらい」と誰かが言ったとき、聞いた側はそれについて意見を述べてしまうことが多いと思う。

「いい職場で働いてるんだから大丈夫だよ」とか、「友達もいるし幸せそうじゃない」とか、いくらでもある。相手の状況はどんな風にも捉えられるし、もちろんそれが悪意から来るものとは思わない。励ましたくて言うだろう。

でも、どんなに恵まれた環境に見えても、どうも「生きづらさを感じやすい人」という人たちがいるような気がしている。わたしも含めて。

「生きるのがつらい」と誰かにわたしが言ったとき、大丈夫だと言われるのがつらい。特に、大丈夫の理由が「わたし」ではなく「わたしの環境」だと言われると、苦しくなってしまう。
自分のまわりの環境は全て自分の力で手に入れたものではないし、大丈夫だと言ってもらった環境の中でも自分は生きづらいのか…と思うと、ますますつらくなってしまうからだ。


生きづらさを解決することは、できるものなんだろうか。これは何かに原因があることではないんじゃないかと最近思うようになってきた。だから、誰かが「つらい」と言っていたときに、無闇に相手のつらさを決めないようにしたい、と思っている。

わたし自身も説明できない生きづらさに悩んできた。だからこそ、生きづらいと言う全ての人たちのつらさを全部分かるとは思わない。

もし誰かが「つらい」って話してくれたら、その言葉をそのまま受け取りたい。そこに「あなたは○○だから〜」っていう励ましをしないようにしたいと思う。もちろん話をしていく中で気分が落ち着いたり、具体策が見えてくることはあるかもしれない。楽になっては欲しいけれど、話を聞いた側がそれを急かすことはなんだか違う気がしている。


多様性、個性、色々と叫ばれているけれど「人のつらさの感じ方」だって、本当に人それぞれなんじゃないかと思っている。

自分のつらさを他人が聞いてくれるだけで、ホッとすることもあると思う。

「人には人の乳酸菌」。
人それぞれ、と言うよりしっくりくるので愛用している。だって菌が違うんだもの。違って当たり前だ。


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