見出し画像

【読んだ】北川眞也『アンチ・ジオポリティクス 資本と国家に抗う移動の地理学』

資本運動にせよ行政権力にせよ、あるいは人道主義に基づく包摂にせよ、それが立脚する地図学的理性と地政学的権力を徹底的に拒絶し、「移動の過剰性」「過剰な主体性」「過剰な欲望」を増大、増殖、爆発させよと全編で挑発する。国境や領域に基づいた統治を失効させたのは貪欲な資本運動ではなく、移民や労働者や被植民者たちの闘争がもたらした統治不能性なのだ、という反転がアツい。

地図学的理性とは何か。それは「この世界を地図そのものへと改変」し、「世界を客観的、安定的、 そして瞬時に見ることを可能とする」(P33-34)。それはあらゆる土地や場所、さらには人間や事物も、同一の尺度の元に包摂する。個別具体的な「場所」は均質的な「空間」となり、地図的理性の内部でのみ意味を持つ存在へと改変させらられる(P35)。古代ギリシア時代からルネサンスを経て西洋近代テクノロジーを規定してしている(いた)その理性は、大地に境界を引いて土地を囲い込み、私有所有権を設定し、国家の領土化し、植民地支配をもたらし、地政学を生み出した(P36-37)。地-権力は、地理の潜勢力、生の潜勢力を凍結させる。「地図は主体形成、数々の異質性にあふれた主体性を殺す」(P40)。

しかし、もはや世界は地図学的理性に基づいて動いてはいないし、統治もされていない(P70)。貪欲な資本運動によってグローバリゼーションがもたらされたからではない。先行するのは「大量破壊兵器、ウイルス、感染症、マルウェア、放射能、電磁波、「テロ」、気候変動、環境破壊、移民、難民、活動家」であり、「空間化された国家の間の競争という構図には収まりきらない諸々の流動性」である(P41)。最初に移民の逃走や労働者による労働の拒否があり、資本はそれへの応答を迫られる(P176)。「移民運動の過剰性、予測不可能性、統治不能性にさらされ、統治の仕組みが瓦解させられうる」のであり(P170)、逆ではない。そもそも地政学自体が、社会の内側において出現していた「階級闘争、無数の不和や逸脱を吸収し」、「国家とは別種の論理で動いている場所を、国家が平定する」ものだった(P38-39)。

この本が描くのは、今日の地政学的秩序をめぐる攻防の諸相である。地中海の移民をめぐるランペドゥーザ島の移民収容所と「ノー・ボーダー」運動、ロジスティクス空間とサプライチェーンの構築と労働者による対抗、現在の日本の技能実習制度の実態と実習生の逃走、あるいはかつて森崎和江や船本州治が描き出した「流民」や「流動的下層労働者」たちによる闘争の伝播。案の定、資本や国家のやり口は狡猾で腹立たしい。移民や難民は敢えて不法状態のまま屈辱的に社会に包摂されるのであり、著者は、ヨーロッパに「受け入れ社会」など存在しないと厳しく指摘する(P86)。日本にやってくる技能実習生たちは「契約」の名の下に渡航前から負債を背負わされ、管理団体にパスポートを奪われ、外出や恋愛を管理される。グローバルなサプライチェーンの構築のために土地は切り刻まれ、住民は棄て去られる。移民の受け入れはビジネス化され、その保護や支援によって利益が生み出される。

争われるのは「移動の自律性」と「主体形成」である。結局資本や国家のやり口は、アイデンティティと属性を一方的に確定し、移動をコントロールする事である。移民たちを「犠牲者」と一方的に表象し、温情主義的で且つ家父長制的な保護を受けるのにふさわしい人物としての振る舞いを内面化するよう求める。移民や労働者をホテルやネットカフェの一室に押し込め、孤立させる。土地や社会に根を張らせず、様々な人や環境との間に生まれるはずの「しがらみ」を絶ち、連帯を妨げる。

しかしそこに生きる人は、強いられる「主権的主体としての自己から距離を置」き(P111)、闘争の地理を作り出す。パスポートは棄てられ、国家が与えるアイデンティティが拒絶され、存在の潜勢力が生成変化を生み出す。移動は「主体形成のモビリティ」であり、それ自体が運動となる(P175)。移民は収容所で保護されるのではなく、自律的でコミュナルな空間が組織されなければならない。そしてそれは「都市への権利」から「惑星への権利」へと刷新されねばならない(P224-225)。

条件は「欲望の政治」であり、野蛮で過剰な欲望を肯定する事である。資本の搾取を糾弾するのではなく、端的に労働を拒否し、同時に最大限を欲する事。「ちょっとだけ 働いて、おいしく食べて、たくさんセックスすること」を求め、「最小限(の労働)で、最大限を欲する」事(P455)。旧来の左翼運動からすれば「正しい労働者意識、正しい階級意識などとは無縁の「無自覚な主体」」に過ぎないこうした態度にオペライスタたちは、資本主義を破壊する主体性の潜在的領域を見出した(P455)。必要なのは、「国家や資本を拒否しながら、そこから富を再領有しようとしながら、おのれの生きた労働を、そして集団的にしか形成され存在しえない生きた労働としての生を、最大限に、無条件に肯定する闘争」であり(P472)、そのような主体形成である。