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【読んだ】松本卓也『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』

病跡学において「統合失調症中心主義」と「悲劇主義的パラダイム」が支配的になった経緯と、それへの抵抗と脱却について。プラトンからドゥルーズに至るまで、西洋思想史の中で「創造と狂気」という問題がいかに扱われてきたのかを通史的にみることで、「病跡学を可能にした思想史的条件」(P39)を論じる本かと。

そもそも「病跡学」とは、傑出した作家や画家の「作品の中に、病からの痕跡を見出し、その精神の歩みを跡づけてみせること」(P20)。病跡学の特徴である(あった)「統合失調症中心主義」とは、「統合失調症者は普通の人間では到達できないような真理を手に入れているとする考え」(P280)であり、それによって統合失調症は他の病よりも特権的に扱われていた。他方で「悲劇主義的パラダイム」とは、「統合失調症者は、理性の解体に至る深刻な病に罹患することとひきかえに、人間の本質にかかわる深淵な真理を獲得する」という構図のこと(P25)。病跡学におけるこのパラダイムの成立と失効とはすなわち、「狂気」に人間の真理をみようとする「弁証法的人間」(©︎フーコー )的な考えの成立と失効をめぐる話とパラレルなのかと(P36-38)。

内容はかなり濃いと思うのだけど、とにかく全体の見晴らしが良く、読みやすさにビビる。「統合失調症中心主義」と「悲劇主義的パラダイム」の構図は、最初期の統合失調症患者であるヘルダーリンの詩作を論じるヤスパースやハイデガーによって作られたという。それはラカンやフーコーによって引き継がれたものの、やがてデリダやドゥルーズによる批判によって乗り越えられた。さらにその前史には、狂気が神々に由来するとしたプラトンや、あるいは近代的な理性的主体の完成を試みた(と思われている)デカルトやカント、ヘーゲルによる狂気の扱いがあることが示される。章立てからして「プラトン(2章)→アリストテレス(3章)→デカルト(5章)→カント(6章)→ヘーゲル(7章)→ハイデガー(9章)→ラカン(10章)→フーコー (11章)→デリダ(12章)→ドゥルーズ(13章)」とあるように、西洋思想をクロノジカルに俯瞰しているので流れが掴みやすいし、各章の冒頭と末尾でこまめに議論を整理してくれるので、この手の思想家の話は解説書で済ませてきたような自分でも迷わず読むことができた。多分だけど、西洋哲学はずっと「理性」について論じてきたのだから、「狂気」を論じるこの本は西洋哲学史の裏面からなぞる事になるんだと思うし、実際、(趣旨とは違うだろうけども)哲学史のイメージを改めて掴むのに役立った。

面白い話は色々あったのだけど、例えばデカルトは近代合理主義の象徴のように言われているけれども、実際には彼は悪夢や霊的なインスピレーションによってコギトを打ち立てたのであり、それは「自らが狂気に取り憑かれている(かもしれない)という疑いのなかから、「理性」を取り出してくる、という逆説的な手続き」をとったのであり、むしろ「狂気に取り憑かれた哲学」なのだと(P109)。あと不勉強で知らなかったのだけど、統合失調症が誕生した(≠発見された)のは近代以降であり、ヘルダーリンは最初期の統合失調症患者だと。それは近代的主体の成立、すなわち「神の死」によって「私」の存在が無根拠さに晒された事によって生まれたのであり、それ故、ハイデガーからラカン、フーコーに至るまで、狂気をめぐっては否定神学的なパラダイムで論じられたのだと(多分)。この否定神学的な論理に抵抗したのが最後に出てくるドゥルーズであり、彼はアルトーとキャロルの作品の論じる事で、統合失調症中心主義の文学観から脱却したと。ドゥルーズの「深層/表層(/高所)」の話ってよくわかってなかったのだけど、アルトーとキャロルの比較を、草間彌生と横尾忠則の比較と重ねてるのはものすごく腑に落ちた。