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【読んだ】シャンタル ・ムフ『政治的なものについて 闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築』

熟議民主主義を批判して闘技民主主義を説いた人でしょ、くらいの雑な認識しか無かったので読んでみた。基本的に刊行当時の政治状況に即した議論ではあるけど、大枠は今の状況に直結する話だと思った。政治の本質は「敵対性」であり、それを消す事はできないと。したがって民主主義において必要なのは合意形成ではなく、「敵対」を「闘技」に昇華する事なんやで、と。

批判されるのは刊行当時(2005年)のリベラリズム陣営であり、彼ら/彼女たちが前提にしていた「ポスト政治的」ビジョンである。いわく、かつての階級対立に基づく政治闘争は失効したのだから、政治の駆動因は党派的対立から「新しい個人主義」に移行し、政治的問題は対話を通じた合意形成によって解決可能である——。こうした前提に基づく議論をムフは批判する。

合意形成と個人主義がダメなのは、それが「敵対性」を扱えないからだと。ではなぜ「敵対性」が不可避なのかと言えば、それがアイデンティティの形成に関わるからだと。アイデンティティは外部の他者の存在の知覚によって集合的に創出されるのだから、「彼ら」に対立するものとして「われわれ」を構成する事、即ち敵対性の構築は不可避であり、それを指してムフは「政治的なもの」と概念化する。したがってアイデンティティの形成はヘゲモニー闘争にさらされるのであり、「われわれ/彼ら」の構成次第で様々に変容する偶有性を孕む。

こうしてムフは(多分正確には、ムフとラクラウによるポスト・マルクス主義理論は)精神分析理論をマルクス主義に導入し、敵対性の抹消不可能性を説く。もちろんこれはシュミットの「友/敵」の話が元にあるのだけど、(これももちろん)ムフはシュミットと自分の違いも同時に強調するのであり、そこで持ち出すのが「多元主義」である。ムフはシュミットにならって敵対性を「政治的なもの」と定義する一方、シュミットに抗して「民主主義的な多元主義の可能性」を肯定しようとする(P36)。民主主義の必要性は、「われわれ/彼らの敵対を乗り越えることにあるのではなく、むしろこの敵対を設定するやりかたの多様性にこそある」(P29-30)。

そこで持ち出されるのが「闘技」である。ムフは、民主主義がやるべき事は「敵対」を「闘技」に昇華する事だとする。闘技とは「対立する党派が、その対立に合理的な解決をもたらすことなど不可能と知りつつも、対立者の正当性を承認しあう関係性」であり(P38)、対話不能な敵対の関係とは異なる。つまり敵対するもの同士は、「一連の民主主義的手続きによる制御のもので」対決させられなければならない(P39)。

つまりムフは結局、闘技の参加者に対して一定の理性的な態度を要求する。それは端的に言って民主主義的な態度であり、西洋近代のヘゲモニーに他ならない。それが排除を伴う事に、もちろんムフは気づいている。むしろムフはこの点において、自らの立場が、多元主義を手放しで賞賛するポストモダニストとも、リベラル民主主義の普遍性を疑わない近代主義者とも違うのだと主張する。

ムフは、ハーバーマスや、「新しいコスモポリタニズム」と呼ばれる陣営を批判する中で、彼ら/彼女たちがリベラル民主主義や人権といった西洋的価値観の普遍性と優位性を疑わない事、更にはそのグローバルな拡張のために必要な法秩序や強制力の理論化にも失敗している事を指摘する。

それは当然、右翼ポピュリズムやテロリズムを生み出している。そしてこうした「原理主義」をリベラル陣営は道徳的観点から排除する。それに対しムフは、民主主義を否定する人々が排除されるのは「政治的決断」によるのだとする。いわく、「私たちが民主主義の価値観と制度に忠実であるのは、それが理性的だからではない。リベラル民主主義の原則が擁護されるのは、それが私たちの生活様式を構成するからである」(P180)。その根拠はカント的な普遍主義にあるのではなくヘゲモニーの産物であり、偶有性にさらされている。ただ、率直に言ってここはやや苦しい感じもしていて、酒井隆史の訳者解説でも、ムフが自身の立場が「普遍主義の別ヴァージョン」に陥ってしまうかもしれないという隘路を、決断や偶有性の存在を示す事で「くぐり抜けようとしている」と表現される(P200)。

要するに、敵対性の存在は不可避なものとして引き受ける必要があり、その暴発を防ぐために一定の制御をしなければならず、そのために持ち出されるのが「闘技」なのだと。ムフはこう言う一方で、その見立てには限界がある事を認め、それは政治的決断を経たものだと率直に示す。翻って多くのリベラル派は敵対性の存在も必然性も認識せず、(今もなお)コンセンサス形成を盲信する。敵対の軸の設定には失敗し、政治は機能不全に陥り、政治不信が広がり、敵対性が暴発する。この時代診断は、上梓から20年経ってますますアクチュアルなものになっているように思う。刊行当時と今で異なる事があるとすれば、例えば当時信じられていたという「コスモポリタンなリベラル民主主義の可能性」を、今はそもそも誰一人として信じなくなっている事だろうけども、それはそれでどう考えても良くない状況でしょうね。