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【読んだ】仙波希望『ありふれた〈平和都市〉の解体 広島をめぐる空間論的探究』

昨年、初めて広島を訪れた。丹下健三による平和記念公園や原爆ドームの空間構成は圧巻だったのだけど、そこで強く感じ取ったのは戦後高度経済成長のイメージだった。公園内に設けられたいくつかの塔や、原爆慰霊碑と平和の灯、あるいはそれらを繋ぐ道、これらの意匠やコンクリートの質感は、同時期に作られた地方の公共施設や、あるいは1964東京五輪や1970大阪万博の際に作られた建築や空間との類似を想起させる。広大な空間をフラットに慣らして軸線構造を強調するというそのやり方には国土開発の欲望も重なる。無論重要なのは、如何にテクノクラート的な空間であっても、そこに佇んだ時の自分には強烈な身体感覚が想起された事だった。原爆投下という事態が集合的記憶として形成され維持され管理されてきた事を、強い身体感覚の拘束力の中で感じたのだった。

仙波希望の『ありふれた〈平和都市〉の解体』もまた、広島の原爆復興とテクノクラートの問題を描く。例えば〈平和都市〉というスローガンが作られたのは、戦後の復興資金獲得のためだった。考えてみれば、原爆投下という事態と「平和」という言葉は無条件には直結しない。事実、当初は「平和」を掲げた復興プランは希少だった。ではなぜ「平和」が選ばれたのか。それは広島を他の都市と差異化して復興資金を得るためであり、広島の観光地化プランのためであり、加えてアメリカからの認可獲得のためだった。そこで言われる「平和」の意味は空白であり、仙波は「〈平和都市〉のその内側にある「平和」の意味が定位されたことはおそらくない」と喝破する(P10)。

こうした〈平和都市〉はこれまで強く批判されてきた。例えば米山リサの記憶研究は、広島の街が「平和」の概念を馴致している事を批判する。「明るい広島」として復興を志向し、祝祭的なメディアイベントや都市計画によって集合的な記憶が強化され、消費される事を米山は「公的な記憶の占有」と呼ぶ。それに対し米山は、語り手による証言実践を対置し、それを「記憶の迂回(路)」と概念化する。それは、「公式的な知の完全性にひそむ空隙の痕跡」を浮き彫りにするための「戦術」(©︎セルトー)である。

米山の戦略を仙波は「平和都市の二分法」と図式化する。それは「〈平和都市〉を単にパワーエリートの産物とみなし、それに対抗するかたちで市井の人びとが存在する、という図式」である(P49)。その上で仙波は、米山の二分法的な視点を超克しようとする。なぜか。おそらく根拠になるのは「都市のダイナミズム」と「モノ」への着目である。それは、パワーエリートと市民という対立図式の矛盾を示すだけではなく、そのどちらの意図にも回収されない存在のあり方を示すからだ。

例えば本書は、「平和塔」という「モノ」の存在に着目する。本書で検討される4つの平和塔は、どれも〈平和〉という理念とは矛盾する由来を持つ。戦後間もなく作られた平和塔には平和の鐘が設置されたが、それは戦地からの戦利品だった。二葉山山頂に戦後作られた平和塔=仏舎利塔の当初の建立候補地は比治山だったが、二葉山も比治山も、戦前戦中は軍事施設だった。現在も宇品の住宅街の真ん中で異様な存在感を示す平和塔は、元は日清戦争凱旋碑だった。凱旋碑から平和塔へと正反対の転身を果たしたように見えるそれはしかし、一貫して宇品という場所を「別世界」として表象し続けたのであり、戦前と戦後の連続性を指し示すものでもある。〈平和都市〉や「軍都」といった都市アイデンティティを矛盾させるモノの存在は、「8月6日」という歴史の切断線を相対化する。

無論テクノクラートの影響力は無視できない。しかしそれは、〈平和都市〉という理念とは全く別の力学に突き動かされる。例えば戦前の広島で行われた「昭和博」「時局博」というふたつの博覧会では、近代都市アイデンティティを模索し(て失敗し)、「軍都」というアイデンティティが希求された。このふたつの博覧会を主導したパワーエリートたちが、そのまま〈平和都市〉復興に携わったというのだから興味深い。しかし彼らが着目したのは実は、原爆破壊によってもたらされた「広漠たる空地」であった。結局のところ、彼らを突き動かすのは軍国主義でも平和でもなく、「都市に対する強い野心」なのだ(P230)。「平和」という概念は彼らにとって道具になり得ても理想にはなり得ない。それは例えば、基町相生通りに生まれたコミュニティが〈原爆スラム〉として病理化され、〈平和都市〉完成のための解決課題に設定された事が典型的に示している。

本書を一貫する視座は、「特殊」と「普遍」のせめぎ合いだったように思う。「特殊」とはいうまでもなく被爆経験であり、「普遍」とはつまり都市のダイナミズムである。原爆投下という圧倒的な事実があってもなお、普遍的な ——つまり、「ありふれた」—— 都市であろうとする事。その両者をつなぐものとして召喚されたのが「平和」という抽象概念だったのではないだろうか。それは一定の拘束力を持つ事はあっても、しかしもちろん、都市は単一の表象には集約しない。「つまるところわれわれは、原爆体験をとおしてなお展開のやまぬ、広島という都市空間のダイナミズム、その布置を探究する必要がある」のだ(P37)。