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【読んだ】若林幹夫『ノスタルジアとユートピア』

人間の存在理解の根拠が、いかに社会の中で立ち現れるのか、という話だと思った。最終的に示されるのは閉塞的な状況にも思えるけど、現状を嘆いて溜飲を下げるような読み方は勿体ない。人間と社会の関係を根源的に考える想像力がめちゃくちゃにかき立てられる。

知覚や経験は常に〈いま・ここ〉に現れるけれども、人間は言語やシンボルを用いることで環世界を超えた意味と広がりを見出し、〈他の時間〉や〈他の空間〉との関係の中で経験を作り出してきた。そうして拡張された世界は文化的な意味をもち、社会的に共有される。それによって人間は「世界の広がりと形状を了解し、その中に自分たちが生きる〈いま・ここ〉を位置づけている」(P43)。その認知と定位は「見当識」と呼ばれ、さらにそれを成立させる「世界の時間性と空間性の体制」を著者は〈世=界〉と呼ぶ。

面白いのは、〈いま・ここ〉は常に欠落として認識される事だ。例えば宗教的意識においては神話に現れる世界が「本来あるべき状態」とされ、それが欠落した状態として現在が意識される。著者はクラストルによるグアラニ族の調査を引きながら、〈いま・ここ〉で不完全な状態にあることを〈一〉と呼び、それに対し、本来あるべき状態にあることを〈二〉と呼ぶ。そして、人間にとって本来生きられるべき状態=〈あるべきこと〉への回帰を志向するのが「ノスタルジア」であり、〈現存しない・理想的な・社会についての・イメージ〉が「ユートピア」である。近代以前においては、ユートピアはノスタルジアへの回帰として感覚されていた。

近代以降、ノスタルジアとユートピアの様相は変容する。交通手段や土木工学技術の発展は、地球上のあらゆる場所に人類を進出させ、地上のユートピアを「現実的」なものにしてしまった。ユートピアは本来”どこでもない理想郷”だから、〈他の場所〉から〈他の時間〉である「未来」へとそのありかは移行する。それはやがて進歩主義を生み、同時に、進歩から世界を守ろうとする保守主義を生む。

1920年代のヨーロッパではユートピアの危機が論じられる。自由主義や保守主義、社会主義-共産主義による政治闘争が、ユートピアのビジョンを相対化したからだ。更には、社会が発展しきって歴史の生成が終わるのではないかという予感が危機と恐怖を生み、この「ユートピアの終わりと歴史的展望の喪失」をマンハイムは「根源的なとまどい」と呼んだ(P90)。

しかし実際には、20世紀の終わりまで「物質的な豊かさによる幸福」がユートピアのイメージとして機能し、進歩主義は世=界の基盤であり続けた。それを媒介したのは「国民国家」であり、植民地支配や帝国主義的侵略という暴力によって国家は空間的拡張を続ける。他方、「伝統が進歩によって解体されることへの不安は、進歩への対抗ユートピアとしての保守主義の理念を生み出す」(P107)。ナショナリズムは、一方では「未来のユートピアへと共に進む共同体」を成立させ、他方では「神話的な過去から続く歴史と伝統の連続体の中で〈いま・ここ〉を了解することもまた可能に」し、それによって進歩主義と保守主義を調停した。

20世紀末以降、いよいよ進歩主義が終焉して訪れたのは、「延長された現在」だけが続く「現在主義」である。「20世紀末以来、私たちが生きる世界の時間の地形は、かつてそうだったような過去との連続も未来への展望も失って、延長される現在へと閉じていったのだ」(P115)。

「現在主義」の様相といえば、グローバル化は地球上のあらゆる場所を資本の活動に開き、世界は「資本主義の内部にほぼ閉じられた」(P120)。フィッシャーのいう「資本主義リアリズム」は、「資本主義にとって好ましい現実こそが唯一の現実であると人々に感覚させ、信じさせる」。そこではユートピアもノスタルジアも「その都度限り」で生み出されるものであり、唯一のメタ現実である資本主義の代替物を想像する事が困難だ。ベックのいうリスク社会は、危機回避やリスク計算という消極的な動機で未来を捉え、現在の行為を選択する。大澤真幸が『不可能性の時代』で描いた自傷行為においては、「〈いま・ここ〉においてもっとも確実な強度をもった現実」として、”私の身体”が唯一可能なものとしてを見出される。

反動的なノスタルジアも希求される。熱狂的なナショナリズムや宗教的原理主義の台頭は、進歩主義の終焉の後、伝統に対して本来性を求める行為である。一時期日本で戦後高度経済成長へのノスタルジーが流行した理由は「「未来が信じられていた時代」へのノスタルジア」であり、そこで欲望されているのは「過去において”歴史の進歩と未来を信じていた私たち”の共同性」である。

おそらく、未来への展望を描く事ができなくなった現在においては、もがくようにノスタルジアの対象をでっち上げながら、現在を延命する事しかできないという事だろう。最後に示されるように、SDGsが志向しているのは未来ではなく、現在の先延ばしでしかない、という指摘は確かに膝を打つ。政治においては、社会の全体を見据えた目標追求は日々のペーパーワークとマネジメントにとって代わられ、学問においては、「統一された世界観をもたない個別的問題の解決や発見が支配的になる」のである(P147)。