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【読んだ】星野太『食客論』

「共生とは高邁な理想であるよりも前に、われわれがけっして抗うことのできない現実のことである」という、自分も(そしておそらく多くの人も)うっすらと感じている問題意識が冒頭でバキッと言語化されていて興味を惹きつけられた。本書では「友/敵」という二分法を脱構築するのだけど、それを政治学的な理論的手続きではなく、「食客」という存在の吟味を通じて行う。無論、「食客」は古今の寓話にコメディリリーフとして登場する「類型的人物」である。しかし本書では、ルキアノス、キケロ、ディオゲネスからバルトやシュミット、また九鬼周造の偶然論や、魯山人、石原吉郎など古今東西の言葉の中に「食客」の姿を見出し、それを飼い慣らされたキャラクターとしてではなく、あらゆる存在者にとっての生の条件としてその様相を描き出していく。

「共生とは高邁な理想であるよりも前に、われわれがけっして抗うことのできない現実のことである。」(P7)

「もっかのわれわれの試みのひとつ、それは人口に膾炙した「共-生(co-existence)」のパラダイムから、あらたな様相のもとで捉えられた「寄-生(para-existence)」のパラダイムへの転換である。」(P80)

「食客とは何か。それは友と敵、身内と他人といった、わかりやすい二分法にはうまく収まらない何ものかである。食客はいつもわたしたちのまわりにいるが、その姿はいつも見えているとはかぎらない。そうした不可視の道連れ──それが、われわれがここで食客とよぶところのものである。」(P81)

「われわれが目をむけるべきは、食客のように「傍らに」いるもの、あるいは「境目に」いるものたちの群れである。われわれの認識の網目を逃れる、ふだんは目に見えない存在者。あるいはさまざまな理由から、目に見えないものとされている無数の存在者──そのありうべき姿を、われわれは歴史のいたるところに見いだしていくことができる。」(P95)

「いかなるものも搾取せず、すべてを正当な方法で調達できる存在者など、およそ神とよばれるものを除けばどこにも存在しまい。したがって、そこでひそかに徴収されているものを文字通りの食事に限定しないのだとしたら、パラサイトであることの条件は、あらゆる存在者が生を営むための根本的な条件へと転じてしまうのではないだろうか。/われわれはみな、何らかの意味でパラサイトである。とはいえ、この社会では「共生」という言葉のほうがはるかに耳触りのよいものであるらしく、どこを見回しても「共生」を謳う言葉ばかりが幅をきかせている。」(P222)

「パラサイトとは、慣習的な法によって共有された規範を攪乱し、そこに決定的な変容をもたらす、そのような潜勢力をもったあらゆる存在者の名称である。」(P230)

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