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【読んだ】吉見俊哉『東京復興ならず 文化首都構想の挫折と戦後日本』

戦後の東京の復興都市計画の失敗を論じた本。キーワードは「文化」と「復興」のふたつ。戦後の復興計画の最初期において、「文化」を機軸にした都市計画ビジョンが存在したが、それはやがて「経済」を基軸にした開発にとって代わられる。その後、高度成長期からバブル期まで、何度か「文化」を軸にした国土計画や都市開発に兆しが訪れるが、全て経済の論理によって潰えていく。その度に、民衆が培ってきた生活や消費のパターンは、「より速く、より高く、より強い」経済の論理によって翻弄される。「文化」から「経済」に転向する際には、必ずオリンピックや万博が契機になってきた。この手のビッグイベントによってのみ開発が主導された東京のあり方を、著者は「お祭りドクトリン」と呼ぶ。都市部への一極集中を志向したその開発はしかし、80年代以降のグローバリゼーションの中で日本が経済的に失速する原因となった。ところで本来「復興」とは循環的な時間の中において過去に回帰する事を指す。しかし戦後の東京が志向したのは直線的な経済成長のための都市開発であり、一切過去を省みていない。故に、戦後の東京は一度も「復興」していない——。

こうまとめるといかにも市民意識をくすぐられるし、実際、五輪や万博の茶番に辟易している一人として溜飲も下がるのだけど、反面、物語としては超単純なようにも思える。とはいえ、それはどう考えても意図的で、おそらくは民衆も含めた多様な人物たちが織りなす群像劇として歴史を描こうとしている様に思う。そう考えると、端々にある過剰な筆致や書名の仰々しさも腑に落ちるし、(最終講義がそうだったように)敢えて演劇的に振る舞っている様にも思う。さすが都市ドラ。

例えば「文教地区」という構想を巡って登場するのは、石川栄耀と山田正男という二人のテクノクラートである。本書において石川は「文化」を志向した人物であり、山田は「経済」を志向した人物である。加えて言えば、石川は地方分散による多中心的な国土計画を志向し、山田は東京への一極集中による国土開発を志向した。いずれにせよ、石川の都市計画ビジョンを潰したのが山田なのだが、対照的なこの二人が師弟関係だというのだから面白い。石川が戦後志向した「文教地区構想」は、要は大学を中心とした街づくりであり、教育研究施設のみならず、学生や教員の生活の場や、公園や図書館や文化施設やレクリエーション施設を併設した学園都市を全国に作る構想である。「リベラルアーツ」の理念に基づくこの構想の原型はしかし、戦前、日本のアジア侵略において「被支配民を文化的に訓育する」ために考案されたものであり、それは「皇国都市」のビジョンに基づくものだった(P101)。いずれにせよ、「皇国」から「リベラルアーツ」へ発想を正反対に転換しながら構想された石川のビジョンを山田は潰した。その所以は「「経済」を重視し、徹底して現実主義的に振る舞う」という官僚としての山田の構えであり、「「文化」を重視し理想主義的傾向の強い石川」とは正反対のスタンスに立っていたからだった。

悪役として登場するのは丹下健三と黒川紀章なのだけど、ディスが超辛辣で笑う。丹下の軸線構造が戦前の軍国主義と連続してるのは有名だけど、本書で批判されるのはその経済観である。それは日本の経済成長や人口増大がずっと続くという「破滅的に誤」った未来予測であり、吉見はそれを「妄想的」とする(P153-154)。黒川は、80年代以降の日本がグローバル化に取り残された状況を象徴する建築家として出てくるのだけど、環境保全のために東京湾を埋め立てるというそのアイデアを吉見は「驚くべき倒錯」と断じた上で、「成長の時代のメタボリズムのおぞましき結末」と評する(P250)。

出版時には進行形だった2021年の東京五輪については、それが鈴木俊一の肝入りだった都市博による臨海地区開発と、青島幸男によるその中止の延長で描いているのが膝を打つ。曰く、2021の東京五輪は青島に対する石原慎太郎の「リベンジ」であり、都市博中止で塩漬けになった臨海地区開発の停滞を打破するためだと。だが、一連の騒動と失敗によって「80年代に鈴木俊一が思い描いていた東京臨海部の未来像は、いまだに実現していないし、2021年に延期された五輪開催がどうなろうと、おそらくは実現しない(P270)」。

西武による渋谷の開発と都市文化の失敗も描いているのだけど、論旨は概ね北田暁大の本を引いているだけだったのが少し物足りなかった。堤清二についてはどうせならもっと突っ込んで書いて欲しいと思ったけど、もしかしたら読み取れていないだけかもしれないし、別の所で書いてるのかもしれない。

職業柄、行政が「文化」という言葉をどう使っている(きた)のかは常に注視してるけど、大平急逝から中曽根政権の流れで、一瞬芽生えた「文化」への志向があっさり新自由主義に潰されて、それが三全総から四全総の流れに影響してるよ、という話は公共文化施設の歴史に紐付けて色々腑に落ちるし、他方では「文化国家」だのなんだの、一貫して「お守り言葉」(©︎鶴見俊輔)として文化の概念を濫用している割に、その内実が一切掘り下げられていないから日本の文化行政ダメなんじゃね?という指摘(P56-62)とかはマジで首がもげるほど肯かざるを得ない。