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【読んだ】『闘争と統治 小泉義之政治論集成II』

『現代思想』や『情況』等々に書かれた20本強の論考を集めた本。『闘争と統治』というコンセプトは、冒頭の「1968年以後の共産党」という論考と、末尾に付された「資本主義の軛」という書き下ろしの論考が示していると思う。前者において歴史化されるのは、戦後日本の議会政治において左派の闘争が失敗し、右派による統治が完成する経緯である。対して後者が描くのは現在の統治と闘争の様相で、それは「新自由主義のエートス」による馴致であり、故にその戦いは文化闘争だとされる。

統治の諸相について。医療や福祉、司法や再分配など様々なテーマを論じる中で徹底的に批判(というか罵倒)されるのは、搾取にせよ包摂にせよ法制化にせよ治療にせよ、生や死を巡るあらゆる統治であり、その"腐臭"である。例えば一貫して批判される事の一つに、死刑制度の様な死の法制化とその議論がある。曰く「言論の帰趨によって人間の生死を決めることは罪科であるし、人間の生死を決めるために言論を事とすることは退廃である(59)」。「この手の問題でコンセンサスを得ようというのが間違えている。法制化など、最もやってはならない領分(312)」なのだ。加えて著者が腐臭を嗅ぎ取るのは、議論や制度の不可能性を補うために道徳や感情が持ち出される事である。例えば死刑制度を巡る司法判断においては、「人道」「国民感情」「時代の変遷」のような非法律用語によって法の破れ目を隠蔽し、法の自立性が捏造される(69)。

例によって矛先は国家や資本に止まらず、良識派と目される知識人たちにも向かう。例えば著者も属するであろう大学人を「人文・社会系」と露悪的に分類しこう記述する。「(人文・社会系の大学人は)路上生活者に対して授業の一環として支援ツアーを行ない、卒業生の一部を支援者に仕立て上げながら、路上生活者を夜回りして監視し、そのニーズに基づきケアを行なっては畳に上げて孤立化させ(221)」、治安を完成させる。また、今日の経済論壇で語られる再分配政策は「一級市民と二級市民のような分断をもたらす統治システム(186)」であり、リベラリストは「援助」と「強制」を混同し、道徳と法、個人の徳と制度の徳を混同させていく(334)。社会正義論は「部に応じて資産・地位・職位・評判・名誉を受け取るというそのことに満足させようとする説教」であり、そのターゲットは誰よりもアンダークラスである(202)。

では、あらゆる統治を拒絶して守ろうとするものは何か。一義的には、包摂されてしまった人々、包摂からこぼれ落ちた人々、「排除」という名で認知すらされない人々の誇りであろう。例えば、差別的な記述によってその特性を記述されるにも関わらず福祉制度の対象にならない「隙間の人(263)」。あるいは労働現場で押し付けられるエートスに馴致されない人、つまり「労働者に誇りや尊厳を持たせる技術・技法、職場の人間関係のコントロール、任意の職務に適応可能な人材の育成、賃金アップ、心理療法」といった「阿片・ドラッグ」によっては救われも騙されもしない層である(354)。

無論そこには、彼/彼女たちに対する著者の共感もあるのだろうが、根底には、常に「別の生」や「別の体系(309)」に開かれている事を死守するという、生成変化論者としてのスタンスがある様に思う。例えばグレタ・トゥーンベリを肯定する中でパレーシアが引かれ、それは「真理を述べる者と真理を聞く者の関係を、あらたな関係に開き」、「別の生」を開かせると論じる(137)。逆に言えば著者が統治として批判するのは、生の形を規定し画一化する全ての権力ではないか。

「闘争」の展望は清々しい。例えば地域アートプロジェクトに触れながらこう語る。「競技場があろうがなかろうが、民衆は自由と平等のために闘うときは闘うし、闘わないときは闘わないのである。競技場は、民衆の潜在的な闘争を妨害するわけでも促進するわけでもない。民衆を脱政治化するわけでもするわけでも政治化するわけでもない(97)」。ハーヴェイやシュトレークを引き合いに語られるのは、今日の革命の可能性は「新自由主義のエートス」に対する文化闘争にあり、「企業と家族が戦場である」という事である(359)。こうも語る。「書物や映像で陰気に報告される暗い話を、そのまま明るい話として読み替えてしまうことだ。絶望の只中にこそ希望があるなどといったことを言いたいのではない。暗いと見なされている事情こそが、現状を変える力を含んでいるということなのである(207)」。

痛快だけど分からない事も多い。例えば『弔いの哲学』で論じられた<殺すことはない>という戒律は本書でも出てくるが、説明なく断言されて面食らう。配分的正義の話や、私的殺人を「民衆の知恵」と呼ぶ事、尊厳死を望む人々への呼びかけは正直理解できていない。ただ小泉義之の一番の面白さはここだと思う。何度も読み返して気づくのだが、時折示される謎めいた断言は終始論を一貫し、決して手放される事はない。故に決して読者を置き去りにしない。無論、(意外と炎上しないけど)「トラブル上等」なんだと思うし、(まえがきで否定してるけど)煽動も意識してると思う。ただそれが呼び起こすのは即座の直接行動をというよりは、しつこく思考を諦めずにいる事によってのみ保てる正気であり、そこから生まれる何かであるように思う。