主権者(私的政治学辞典No.12)

文部科学省は、「主権者教育の推進」を図ろうとしている。サイトで文部科学省は「主権者教育の目的を、単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を身に付けさせることとした。」としている。

ここでいう主権者とは、何なのか。

ふつう、主権とは、(1)国家の内にあっては国家意思の最終的決定権、(2)国家の外にあっては何ものからも干渉されない最高の独立権、(3)土地や海の上にあっては所有権よりも強い統治の権利、この3つを指す。

だから主権者、とくれば、(2)や(3)の主体は国家だから、その権利の行使などに関わる意思の最終的決定権を持つ者、つまり(1)の権利を持つ者、と、普通は考えられる。

で、日本国憲法をはじめ、各国の憲法にも規定があるように、現代は国民が主権者、ということになっている。

何やら、空虚な気持ちにならないだろうか。我々は、そんなたいそうな権利を持たされているのだろうか。

特に、各国や各社会におけるマイノリティの人は、そうだろう。

性的マイノリティの人がいたとする。あなたは主権者ですよと。でも、自分が望む性の形を届け出ることはできない。男か女か、公的な性のアイデンティティはたえず2択を迫られる。同性婚はできない。体にメスをいれて「性」を変えたとして、結婚するためには、慣れ親しんだ「姓」を、捨てるかどうかという選択に迫られる。このような人は、それでも、主権者なのか。

ちなみに、主権という言葉は、フランスのボダンという人が考えたとされている。ボダンは、絶対君主の権利を主権と呼んだ。それが、市民革命を経て、主権を持つ者が君主から国民に代わったのだ、という。

君主が主権者、というのはわかる。ある特定の人が、主権を持っている。しかし、国民が主権者、というのは、わかったようで、よくわからない。日本には1億人以上の主権者がいる。どういうことなのか。

国民主権というのは、「君主主権ではない」ということ以上の意味はない、というべきなのではないか。民主国家である以上、特定の人が主権を独占することはない。最終的に、国民が主権に「関わることができる」。そういう意味で、国民主権の原理なのだ。国民「が」主権者、というわけではない。だったとしても、それには、それほどの意味はない。

日本国憲法を読んでみよう。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

「国民が主権者」とは書かれていない。「主権の存する日本国民」とは、どいうことなのか。

18世紀の政治思想家、ジャン・ジャック・ルソーは、有名な『社会契約説』のなかでこう述べている。

「(国家の)構成員についていえば、集合的には人民という名をもつが、個々には、主権に参加するものとしては市民、国家の法律に服従するものとしては臣民とよばれる。しかし、これらの用語はしばしば混同され、一方が他方に誤用される。」(桑原武夫・前川貞次郎訳・岩波文庫版より)

2文目の表現は、さすが鋭い。が、ここではちょっとおいて、次に、ルソー没後起こったフランス革命のときに書かれた、フランス人権宣言(人及び市民の権利宣言)を読んでみる。

あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威を行い得ない。(岩波文庫『人権宣言集』より)

主権者、という人がいて、われわれがその主権者、というかもしれないが、それには意味がないのだ。国民が国家の主権を作り上げることに参加する自由や権利がある、それが国民主権という「原理」や「理念」なのだ。

あなたは主権者です、政治に参加してくださいね。参加して、思うままの政治に一ミリもならなくても、主権者なんだから、政治に従ってくださいね。ということではない。主権者なんていないんだ。

主権者の声を聞いて政策作りました、なんて嘘くさいんだ。これは、主権者を、国民、納税者、消費者……に置き換えても、よくわかる。

政治学者の金井利之は、『行政学講義』(ちくま新書)のなかで、「主権者である国民の名のもとで、個々人の意見や自由を抑圧することは可能」であり、「国民は主権者ではありません」といい、国民主権という原理が暴走を止めることができない専制政治を引き起こす可能性について述べている。

いまは国民が主権者といういい時代ですね、という言葉で騙されてはいけない。一人ひとりが、自分だけでなく、周りのいろんな人にも気を配りながら、投票だけでなく、許されるさまざまな政治活動をすることに、「国民主権の原理」があるのだ。主権者が参加した選挙でぜんぶのことが決まる、というわけではない。しかし、そう云う人はたくさんいる。

ちなみに、アメリカ・イギリスの憲法には「国民主権」の規定はない(そもそも、イギリスには成文の憲法はない)。国民の選挙で選ばれた者たちが政治を行い主権を行使する、だから次の選挙で国民からノーを突きつけられたら主権は行使できない、ということだ。イギリスはそもそも「議会主権」とされている(男を女に、女を男に、する以外のことはすべてできるといわれる)。主権者は国民、という、分かったようで分からないようなことにはなっていない。

最初の、文部科学省の「主権者教育」の話に戻る。知識、協働すること、自立、主体的な力、悪くないだろう。ただ、「主権者って何なの?」という懐疑・批判の精神を打ち立てることには、触れていない。それも大事な主権者教育なのではないか。

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