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母、永眠

2月26日の夜に母が永眠。3月1日に葬儀を行いました。以下は、喪主として葬儀で述べた挨拶です。

 本日はお忙しいところを亡き母の葬儀にお集まりいただき、まことにありがとうございました。いくぶん長い挨拶になりますが、これが母について話す最後の機会になりますので、お付き合いください。

 母は、病気療養中の市立病院にて、2月26日午後8時54分に95年の天寿を全ういたしました。

 母は、一昨年の5月に介護施設「春圃苑」に入所し暮らしておりましたが、昨年10月11日、血液中の酸素濃度が下がり、肺炎を再発した恐れがあるために市立病院に救急搬送されました。ところが、救急病棟で検査中に突然苦しみだしだしたのです。心筋梗塞と診断されてすぐに手術を行い、危ういところで一命を取り留めました。

 心筋梗塞を起こしたのが病院ではなかったならば、母は助からなかったかもしれません。これも、春圃苑のスタッフの方が救急搬送を判断されたおかげなのです。

 手術は成功しましたが、医師からは、心筋梗塞を起こした血管が3本もあること、また手術のために投与した造影剤が腎臓に強い副作用があることから、依然として危険な状態であり、万一のことも覚悟するよう伝えられました。

 それほどに危うい状況でしたが、次第に容態が回復し、受け答えも、食事もとれるまでになりました。その後は酸素濃度や血圧など身体の状態を示す数値も正常に戻り、11月20日に退院することができました。

 春圃苑に戻り、また元のように過ごしていたのですが、2月3日に心不全のために再入院しました。そして、翌朝5時40分、市立病院から連絡を受けたのです。血中の酸素濃度が下がり続け、危険な状態にあるので、すぐに来るようにとのことでした。まだ暗い時間の電話でしたから、最悪の事態を覚悟しました。

 病院に着くと、母は集中治療室で酸素吸入と点滴を受けており、モニターが心臓の状態を示していました。麻酔のために受け答えはできません。医師から、モニターの酸素濃度の値を示されて、これ以上数値が下がると助かる見込みはないと告げられました。

 私にできることは何もありません。ただ手を握り、背中をさすりながら母の様子を見守っていました。1時間ほど経ってから、酸素濃度の数値が上昇しはじめ、危機的な状況を脱する数値まで戻ったのです。 

 まだ厳しい状態でしたが、一旦母の側を離れて自宅に戻りました。そして、3時間後の10時に医師から連絡があり、血液中の酸素濃度が正常値に戻ったとのことでした。母はまだ生きようとしている。これほど安堵したことはありません。

 埼玉にいる弟に知らせると、これが母と会うことのできる最後の機会になると思ったのでしょう、2月7日、弟はすぐに埼玉から新幹線を使って母の面会に来てくれました。病院はコロナで面会を禁止していましたが、医師の許可をもらい、面会することができました。

 母も、弟が遠くから会いに来てくれたことが嬉しかったようです。弟をねぎらい、ベッドで寝ているにも関わらず、食べ物でもてなそうと気遣うほどでした。コロナのために、これまではガラス越しの面会しかできませんでしたが、手を握って、母と話し合えた。弟は、こうして会うことができなかったら、ずっと後悔するところだったと語っています。

 そして2月10日、95歳の誕生日を迎えることができました。このまままた持ち直してくれるものと期待していたのですが、その後、今度は不整脈が発生。薬も効かない状態になります。一時は持ち直したのですが、病状の悪化は進み、亡くなる1週間前には医師から今夜が山になるかもしれない。その時はすぐに知らせるから、覚悟して待機しているようにと告げられました。

 その最初の山を超えても連絡はなく、1週間後の26日、ついにその日を迎えましたが、それまでに母は6つもの山を越え、最後の山で力を使い果たしたように息を引き取りました。辛い闘病生活だったでしょう。それでも最後は安らかな顔で永遠の眠りに入ってくれました。それもまた、子どもである私への母の気遣いであったのかもしれません。

 母は、1929年2月10日に唐桑で菅野栄之進ときし夫婦の7女、7番目の娘として生まれました。10歳の時に第2次世界大戦が始まり、敗戦の前年に母は学徒動員で神奈川にあった戦車工場に送られます。正月に故郷に帰ることを許されましたが、過酷な労働と食事さえ満足に取れない生活のために、やせ細った姿で帰り、その姿に驚いた祖母は母を工場に戻さなかったそうです。

 敗戦が近づき、米軍の空襲が激化して軍需工場はその標的にされていましたから、もし祖母が工場に戻ることを止めなかったならば、母も空襲の犠牲となり、私たち兄弟も存在しなかったかもしれません。

 ちなみに1925年生まれの父は、19歳の時に招集され中国戦線に送られました。その時の戦争体験を父は一切口にしませんでしたが、敗戦後に帰国し、大谷に戻って来た時には体重が30数キロ、骨と皮だけの姿だったそうです。

 同じような過酷な体験をした父と母は、子どもたちにはそんなつらい思いをさせたくなかったのでしょう、同じ世代の方はお分かりと思いますが、私たちの子どもの頃は貧しかった。継ぎ接ぎだらけの服を着ていましたが、ひもじいという思いをしたことがありません。

 母は食事には特に気を使っていました。学校に通っていたころは、昼休みに母の弁当を食べることが楽しみでした。何種類ものおかずが入っていました。前の晩の残り物もありましたが、同じものが続くということはなかったのです。その弁当を小学校から高校までの12年間、欠かさずに作ってくれました。一番下の弟が小学校に入ってからは、兄弟4人と父の弁当を5つも作り続けたのです。当時はそれを当たり前のことと思っていましたが、どれだけたいへんだったことか、あの時にもっと感謝の気持ちを伝えておけばよかったと今になって悔やんでいます。

 最後になりますが、皆様に聞いていただきたいことがあります。

 「親ガチャ」という言葉をよく目にします。「子は親を選べない」ことをカプセル玩具の販売機になぞらえた言葉ですが、残酷で悲しい言葉だなと思いました。「子ガチャ」という言葉もあります。親と子が互いを嘲るような言葉が流行語になる。今、そんな社会に生きているのだと思うと情けなくなります。

 どんな親であれ、その親がいなければ、子は存在しません。否応もなく、親の生き方や考え方の影響を受けながら子どもは成長します。親の生き方や考え方を見習うにせよ、反発するにせよ、それを土台として、子どもは自分が何者であり、また何者でありたいのかを学ぶことになります。

 私も、母の生き方や考え方を見習うこともたくさんありましたし、反発することも数多くありました。いずれにせよ、その一つ一つから考え、学んできました。私が今あるのは、そんな母のおかげでもあるのです。ですから、私はこの母を選んで生まれてきたのだと思っています。

 長くなりました。故人に代わりまして、皆様のご厚情に感謝申し上げますとともに、これからも変わらぬご厚誼とご指導を賜りますようお願い申し上げます。

 本日はご会葬まことにありがとうございました。

2024年3月1日

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