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日々の日課としての神社参拝、ずっと続けている。なぜか心が落ち着く、神仏のご加護あればよし、なければないで

 永い目で見れば、人間の一生なんて、考えることもなく生まれ、必死に親に縋り、長じては、なんとか自立できるよう努め、伴侶を得て、一人の成人男子として生活する。気が付けば子供がいる、そのうち壮年、老年となって、もはや、いつお迎えが来てもおかしくない。
 だけどお迎えってなんだろう。両親はじめ諸先輩方の死去の折、阿弥陀様一度もご尊顔を拝することはなかった、その他の有難いこともなかった。
 私のときも、そうだろう。
 メメントモリとか言っても、最期は、気力も体力も失せ、静かに死んでいくのだろう。そのときを想いつつ、日々を神様に祈っている。
 この一瞬、愉しませてくださいって。
 一日いちにちが充実し、愉しみそのものでありますようにって。
 それは自分への決意の表明だろう。
 よし!がんばるぞって。
 それで一日が始まる。
 今日一日いろいろあった。
 早朝、市道を挟んで向かい側のアパートのゴミステーション、犬連れの高齢女性がゴミ袋の山を見ているのか、なんかしている。私が少し離れて観ているのに気づくと、立ち上がって、そ知らぬふりで犬を連れて立ち去った。
燃やせないゴミなら、なかには使用可能な物もあるだろう。資源ごみなら,しかるべきところへ持って行けば、多少金になる、市の条例違反だけど。
 燃やせるゴミは、なんにもならない。汚い臭いだけ。
 そういう人もいるのだ。
 他になんか理由があるのだろうか。
 もうひとつ、一般的なことだけど。このアパートから1軒、引っ越しがあって、ごく近くに引っ越しがあった。高齢の両親のところへ転居、同居ということだろう、先週来、自分で運べるものは、手運び、自動車なでで運び、次には引っ越し業者、その間を縫って、エアコンや電気製品の取り外しや廃棄など一連の引っ越し作業、今日も様々に運搬や廃棄の作業をやっていた。
 時々見ている私もヒマな年金生活者、あっちこっちから見ているのだろう。
 最近、一人住まいの人が亡くなったり、どっかへ行ったりして、一戸建て住宅やアパートの整理、解体が増えた、目につくように思う。それがしばらくすると、新しい家やアパートが建つ。
 どんどん変わっていくの空おそろしいほどだ。
 かつてありし家は稀なり、大家滅びて小家となり
 方丈記や徒然草か忘れた、昔も今も同じ流れ
 しばらくすると、みんな忘れてしまう。
 たったいま目にしていることも、数日で脳裏から消える。
 自分はいま、ここにいる。明日は、どうだろう。
 まったりと考えてみたい。
 毎日神社にお参りして、時の流れと日々の生活の無常さを感じた。
 人生いろいろ
 おやすみなさい。また明日も元気で、がんばりましょう。

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