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多感な若い頃、仕事で住んだ街、その土地へ転勤し、いまセンチメンタルでジャーニーで行く。

 いまから思えばバカだった。工業高校からストレートで入ったまぁまぁの大学、馴染めず中退した。目標の大学を受けるために再受験した。調子にのれずズルズルと引きこもり。数年後やった社会復帰、配達ドライバーから公務員へ転じて、故郷をでた。
 その土地、別になんの思いもない。外へ出るには、確実で安定した職場と思っただけ。いろいろ厳しい環境だった。私には、全然、向かない職種、しかし、引き籠もりのつらさがそのまま39年の年月を過ごさせた。
 それが結果的には、私と家族には、よかったと思う。
 一抹の哀しさはある。
 最初の5年間、いろいろあった。苦しくつらいことばかり。それでも、縁あって結婚、赤子を連れて、日本海側へ転勤した、まるで放り出されるように、12年経って、同じ職場へ管理職で転任した。
 状況は、大きく変わっていた。
 勝手知ったる過去の勤務場所、先輩は多くは退職・転勤し、同じレベルの同僚も多くは不在となっていた。人事の怖さであろう。
 やりたい放題の2年間
 その地へ、駅周辺だけど、散策した。さっさと所用を済ませて。
 センチメンタル・ジャーニー、
 人生ってなんだろう。
 あとには、ただ風が吹いているだけ。

 昔、平屋Ⅰ階建ての倉庫みたいな駅舎、いまは駅ビルで広く高く、
周囲には、プラザホテルという名の田舎には珍しいと感じたホテル、それは目立たなくなって、他の高層ビルが林立していた。
 

駅前は広くなった。線路は高架になった,だいぶ前に。

 駅の北側は、昔は、小さい住宅が密集していた。車では、非常に行きにくい通りだった。それが大きな道路とビル街になっていた。
 時の流れを、つくづく思った。
 そういえば、私の故郷の高松、駅前は、昔とは、全然、趣が変わっていた。昔を知る者には、いいのやら悪いのやら。
 すべては移り変わる、こわいほど。
 午後は曇り。
 懐かしい街には、1時間もいなかった。
 日々生きるのに必死だった。
 駅前のヤマハピアノ教室で、レッスンを終えて、次の人と交代したら、職場のトップの奥様だった。駅前には、ごくたまにしか行かなかった。
 文化があった。
 それも懐かしい。
 私の思い出話

朝、白かった芙蓉、夕方にはピンク


#忘れられない旅

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