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阪神淡路大震災に思う

 もう30年近く前のこと、まだ40歳過ぎて初めて管理職であった頃か、まだ元気で若かった、先のことも考えなかった。子供たちも、まだ小学生以下、なにも問題なく元気に育っていた。
 そんなある日、突然、大きな地震がやってきた。
 公民住宅の一部、4畳半で妻と寝ていた。午前5時46分、もうすぐ起きて、出勤の準備にかかる。いつもなら、まだ起きない。だけどなんか二人とも起きていた。グラグラ、グラグラって、すごかった。
 妻の嫁入り道具タンスが揺れていた。
 なんとか収まって、テレビをつけたらついた。NHKのアナウンサーも驚きつつ、NHKの局内の状況を放送していた。
 少しの間、停電し、すぐ復旧した。
 娘たち4人、2人は目覚めていた、地震に驚きつつも、結構、平然としていた。他の二人は、まだ寝ていた。
 私は、衣類を整えて、仕事場所に駆け付けた。 
 それから、いろいろ想像もできないことがあった。緊急事態ばかりだった。思い出すのも、驚くほどいろいろなできごとがあった。
 それでも神戸ではなく、近くの都市だったので、まだ平穏な生活ができた。少し落ち着いてから、神戸へ緊急物資の搬送や給水車の移動など、思わぬ仕事もやった。
 高速道路、一台も走っていない通行止め、そこを許可を得て、トラックで走った。今では、まったく想像もできなかった。
 上司の指示で、神戸の被災状況を観に行った。後学、なんらかの形で災害は、またある、それを現実に見ておけとの趣旨だった。その上司は、神戸出身だった。まだ須磨までしか電車は復旧しておらず、神戸まではバスで行った。
 あれやこれや、様々な対応が必要だった。
 そして4月、近隣の施設へ配置換(転勤)になった。今度は、施設管理その他予算を伴う担当課の課長、これも初めてだった。
 施設の復旧に向けて、本省や管区との折衝、40歳代はじめに、こんなこと、驚きの日々だった。
 あれから30年が経つ。
 世界中でウクライナを始め悲惨な情況がまだまだたくさんある。
 平和が一番、元気が一番、健康が一番、そう思う。
 だのに戦争をする奴がいる。
 もう終わったことではある。
 あのようなこと、おこらぬように。
 私のぎっくり腰&積年の腰痛、少しづつ改善している。
 早く春よ、来い。
 そのうち治るだろう。
 おやすみなさい。

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