映画『レイシスト・カウンター』を観て考える民主主義

 先日、映画『レイシスト・カウンター』を観てきました。在日韓国人の友達と一緒に観に行ったんですが、その彼が上映終了後にポツリと呟いた、「この映画に出てくる人のほとんどが人を信じていないことがただただ悲しい」という言葉を聞いて、いろいろ考えさせられました。正直、映画の内容以上に、僕の心に深く突き刺さったので。

 もちろん彼の言葉が“すべて”ではありません。でも、彼にこのような言葉を吐かせるものはなんなのか?ということについて考えるのは、必要だと思いました。

 というわけで、あらためて考えてみました。映画に出てくる人たちの発言や著書を可能限り調べて、僕なりの意見を組み立ててみようと。

 たとえば、カウンターと呼ばれる人たちのなかには、マイノリティーが不安に脅かされないようにという理由で、ヘイトスピーチや差別表現を法的に規制しようと言う方が多い。でも、僕はこうした意見には反対です。ヘイトスピーチや差別表現を法的に規制した場合、“日本人の尊厳を守るため”みたいな理由で、マイノリティーの表現が規制されてしまうリスクもあると思うので。僕は、このリスクのほうがデカすぎると思うんですよね。だからこそ、政治とは違い、多数決の原理が及ばない“表現の自由”は守られるべきなかじゃないかなって。

 もっと言えば、日本が1979年に批准した自由権規約の第19条にある、「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。」という一文(建前)って、ヘイトスピーチや差別表現と戦う人たちこそ“主張の足場”として大切にすべきだと思うのだけど、どうなんでしょう?

 それに僕は、民主主義が大好きです。もうちょい正確に言うと、文部省が戦後間もない頃に作り、1948~53年まで日本で使われていた教科書『民主主義』における民主主義ですけどね。最近、高橋源一郎さんが、朝日新聞の論壇時評で取りあげて話題になってるやつです。僕はこの教科書、小さい頃(小学6年くらいのとき)に弁護士の母に教えてもらい読みました。読んだ当時はよくわからなかったけども、それなりに歳を重ねた現在、「ああ、あの教科書で書かれていたのはこういうことだったんだ!」と思うことも多くなりました。

 そのせいか、『レイシスト・カウンター』を観終わったあと、『民主主義』で読んだ以下の部分がフラッシュバックしたので、長くなりますが引用させていただきます。

「日本も無謀きわまる戦争を始め、その戦争は最も悲惨な敗北に終り、国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかもしれない。しかし、そう言って安心していることはできない。独裁主義は民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。独裁政治を利用しようとする者は、今度はまたやり方を変えて、もっとじょうずになるだろう。今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗じてじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変え、自分たちの野望をなんとか物にしようとする者が出て来ないとは限らない。そういう野望をうち破るにはどうしたらいいであろうか。

 それを打ち破る方法は、ただ一つある。それは国民のみんなが政治的に賢明になることである。人に言われてその通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。民主主義は「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない」(『民主主義』第1章「民主主義の本質」内の〈下から上への権威〉より)

「多数の意見だからその方が常に少数の意見よりも正しいということは、決して言えない。(中略)政治上の判断の場合にも、少数の人々の進んだ意見の方が、おおぜいが信じて疑わないことよりも正しい場合が少なくない。それなのに、なんでも多数の力で押し通し、正しい少数の意見には耳もかさないというふうになれば、それはまさに「多数党の横暴」である。民主主義は、この弊害を、なんとかして防いで行かなければならない。

 多数決という方法は、用い方によっては、多数党の横暴という弊を招くばかりでなく、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある。なぜならば、多数の力さえ獲得すればどんなことでもできるということになると、多数の勢いに乗じて一つの政治方針だけを絶対に正しいものにたてまつり上げ、いっさいの反対や批判を封じ去って、一挙に独裁政治体制を作り上げてしまうことができるからである」(『民主主義』第5章「多数決」内の〈民主政治の落し穴〉より)

「多数決の方法に伴なうかような弊害を防ぐためには、何よりもまず言論の自由を重んじなければならない。言論の自由こそは、民主主義をあらゆる独裁主義の野望から守るたてであり、安全弁である。したがって、ある一つの政党がどんなに国会の多数を占めることになっても、反対の少数意見の発言を封ずるということは許されない。幾つかの政党が並び存して、互いに批判し合い、議論をたたかわせ合うというところに、民主主義の進歩がある。それを、「挙国一致」とか「一国一党」とかいうようなことを言って、反対党の言論を禁じてしまえば、政治の進歩もまた止まってしまうのである。だから、民主主義は多数決を重んずるが、いかなる多数の力をもってしても、言論の自由を奪うということは絶対に許さるべきでない。何事も多数決によるのが民主主義ではあるが、どんな多数といえども、民主主義そのものを否定するような決定をする資格はない。

 言論の自由ということは、個人意志の尊重であり、したがって、少数意見を尊重しなければならないのは、そのためである。もちろん、国民さえ賢明であるならば、多数意見の方が少数意見よりも真理に近いのが常であろう。しかし、多数意見の方が正しい場合にも、少数の反対説のいうところをよく聞き、それによって多数の支持する意見をもう一度考え直してみるということは、真理をいっそう確かな基礎の上におくゆえんである。これに反して、少数説の方がほんとうは正しいにもかかわらず、多数の意見を無理に通してしまい、少数の人々の言うことに耳を傾けないならば、政治の中にさしこむ真理の光はむなしくさえぎられてしまう。そういう態度は、社会の陥っている誤りを正す機会を、自ら求めて永久に失うものであるといわなければならない」(『民主主義』第5章「多数決」内の〈多数決と言論の自由〉より)

 といった感じで、これこそ僕が感銘を受け、今も好きな民主主義です。大学では政治経済学部にいたので、“民主主義とは?”と考え議論する機会は他の人たちよりも多かったと思うのですが、民主主義に関する持論を述べるうえで土台にしていたのは、この『民主主義』という教科書でした。なので僕は、マイノリティーに対する差別表現やヘイトスピーチには断固反対ですし、安倍晋三の政策や言動についても疑問を持つことがほとんどです。そしてだからこそ、差別表現やヘイトスピーチを可能な限り減らすためには、民主主義という考え方が大事だと考えています。

 でも、そんな僕からすると、映画に出てくるほとんどのカウンターの人たちがよく口にする“民主主義”は、その人たちの言動(映画だけでなく、著作やツイッターでのものも含みます)から判断すれば民主主義ではないように見えてしまいました。少なくとも、「何よりもまず言論の自由を重んじなければならない。言論の自由こそは、民主主義をあらゆる独裁主義の野望から守る盾であり、安全弁である」という言葉には、相応しくないと思いました。

 そう考えていくと、「もしかしてこの人たちは、ゴールに至るまでの過程だけでなく、ゴールそのものが異なっているのかもしれない」とも思えるのですが、この疑問に対する僕なりの答えはまだ出ていません。確かなのは、冒頭で引用した友人の「ただただ悲しい」という感想に、僕も同意できるということだけです。

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