ふたりだけの世界 映画『私の男』

先日、映画『私の男』を観てきました。

監督は、前作『夏の終り』も話題になった熊切和嘉。原作は桜庭一樹の同名小説なのだが、設定やストーリが異なる部分が多くあり、予習として原作を読んでから、というのはあまり意味がないように思える。

この映画は、浅野忠信が演じる腐野淳悟と、二階堂ふみが演じる腐野花のふたりを中心に描かれている。近親相姦といったスキャンダラスな側面も、大きなトピックになったのは多くの人が知るところだろう。

とはいえ、そうした近親相姦云々、例えばアリかナシかという考察などは、ハッキリ言ってナンセンスだと思う。そもそも、淳悟と花の間には、“ふたりだけの世界”しか存在しないからだ。ゆえに淳悟と花は、世間一般では当たりまえとされている常識からはみだし、さらにタブーであることを承知のうえでお互い愛しあう、といった空気を漂わせない。だから、いけないとわかっていながらも愛に溺れる背徳の物語、みたいなものを求めている人は、肩透かしを食らうかもしれない。繰り返しになるが、あくまで『私の男』という映画は、淳悟と花の間にある “ふたりだけの世界” だ。それは、前触れもなく淳悟と花のふたりだけになるラストシーンからも、窺い知れる。

そのラストシーンの話が出たところで、少しばかり突飛なことを書かせてもらう。筆者からすると、『私の男』という映画、一種のアシッド映画ではないか思えてしまう。ラストシーンもそうだが、血が滴り落ちるなかで表現される淳悟と花の情愛、さらにはジム・オルークによる音楽も相まって、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の『オンリー・ゴッド』、それからケン・ラッセル監督の『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』などに通じる要素を見いだしてしまったのだ。例えば『オンリー・ゴッド』では、チャンが突然、背中から刀を出すというカットがあるが、このカットと『私の男』のラストシーンを筆者はどうしてもダブらせてしまう。そうした意味で『私の男』は、“浴びる” “体感” といった言葉が相応しい映画でもある。

と、ここまでは映画について書いてきたが、このあたりで二階堂ふみについても少々書かせてもらう。というのも、『私の男』では、ひとりの“少女”が“女”に飛躍していく切なさと美しさが表現されているからだ。幼少時代の花を演じる山田望叶、そのあとは二階堂ふみにバトンタッチし、中学、高校、社会人と演じているが、13歳の花が河井青葉演じる大塩小町 に「小町さんって美人だよね」と無邪気に言い放つシーンから、淳悟の股下にゆっくりと妖艶に足を伸ばす“女となったの花”に至るまでの変化は、“少女”から“女”へ変化していく際に失われる“ナニカ”と、その代わりに得られる“ナニカ” をスリリングに描いている。そして、このスリリングさを二階堂ふみは見事に演じきっていて、その姿を観た筆者は、畏怖に近いものを彼女に対して抱いたのだ。二階堂ふみは今年9月で20歳になる女優だが、そんなタイミングで『私の男』が公開されたのは偶然ではない、というのは筆者の邪推がすぎるだろうか?


(近藤真弥)

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