なぜ『アメリカン・スナイパー』は愛国と反戦を共立させたのか?

 人にオススメしたい気持ちにはならないけど、誰もが一度は観たほうがいいとは思える。そんなアンビヴァレントな心情を、『アメリカン・スナイパー』を観て抱いてしまいました。

 仮に点数をつけるとしたら、「なし」ですかね。駄作だからではありません。この映画は、出来不出来を評する以前の作品と言いますか、まずは「なぜこの映画は作られてしまったのか?」という話をしたほうがいいと思ったからです。

 もちろん、“肘”のシーンや砂嵐のシーンなど、巧みな描写が多く見られるので、そこから出来不出来を評することも可能でしょう。でも、僕にとって『アメリカン・スナイパー』は、そうした観点からの評価を放棄させるほど圧倒的な作品なのです。

 その圧倒的なところの一例を挙げると、アメリカ映画の王道をいくストーリーでありながら、アメリカを冷静に批評するための徹底した客観性があるということ。この客観性は冷酷とも言えるほどで、それは女性や子供が容赦なく撃ち殺されていく内容にも表れている。正直、見ていて気持ちのいい映画とは言えません。それでもクリント・イーストウッドは、女性や子供が死んでいく様を観客に「ただ見せる」。何かしらの信条を一義的に押しつけることもなく。

 人によっては愛国映画と捉えるかもしれないけど、そんな単純な映画ではありません。主人公である伝説のスナイパーを無条件で賛美するようなシーンはなく、主人公がPTSDに悩まされていることを示す場面もたくさん登場します。こうした点をふまえると反戦映画とも言えますが、ややこしいことにこの映画は、愛国と反戦を整理しないまま放置している。いわば愛国と反戦が共立してるのですが、もしかするとこの共立は、アメリカ人のほとんどが抱えているものかもしれません。だからこそ、アメリカでも賛否両論が巻き起こってる?と考えてしまったり。

 そんな『アメリカン・スナイパー』ですが、“どちらでもない”という選択を取りづらくなった現在の日本では、はたしてどう観られるのか?その答えは、絶対に見逃してはならない(そして聞き逃してはいけない)エンドロールにあると僕は思います。

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