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僕/猫

*僕の「受験体験記」をいま、書かれた時から20年経って現役の宇高生が読んでくれたことを知ったので、当時のままの形で公開する(傍点だけ省略した)。宇高は「うたか」と読む。宇都宮高校である。「うこう」は「宇都宮工業高校」。

*1997年、18歳、東京大学文科三類16組フランス語選択。読み直してみると、この流れ、呼吸、リズムはいまの文体とそれほど違わない。まあしかし小生意気。

*このとき僕はカミングアウトしていない、というかとてもできる状況ではなかったが、このタイトルはゲイの「ネコ」(受け)の暗号でもあった。

*これが掲載された後、何かの機会に母校に行ったとき、某教師が「これにはがっかりしたよ」、(ラストに出てくる)「豆腐とは何なんだ」と、僕の記憶ではけっこう強い調子で批判して、驚いてしまった。怒るような内容だとは思えないのだが、生意気に見えたのだろう。なお、それでその先生と仲違いしたわけではなく、それからも時々連絡をくださり、いまでもお付き合いがある。

*僕は猫がとても好きだ。ツイッターには猫好きをアピールする人が大勢いるが、眉唾だと思っている。猫は犬と違ってベタベタした関係性を嫌う。よくいる猫好きは、猫が嫌う態度で猫にアプローチしているとしか思えない。で、僕ほど猫的無関係性を大事にする人はそういないと自負してきたのである——この文章以来。


僕/猫

 受験期の記憶が、すでに思い出の域に入りつつある。あの頃——とは言っても、まだ三ヶ月前くらいのものだが——について、十分なリアリティを備えた言説を披露することは、今の僕にはできない。いや、それらしいことはできるかもしれない。だが、そのような——いかにも必然的に受験へのステップが踏まれたかのような——記憶の編集を行ったところで、それはあまり意味のあることだとは思えないし(凡俗な成功物語である)、第一、読者の方々に対して失礼だとも思う。
 そういうわけで、ここで「僕がいかに受験を成したか」を述べることはしないつもりだ。参考書等々の具体的なアドヴァイスもしたくない。そうではなく、できるだけ新鮮な僕自身の言葉、つまり現在の僕の言葉を編んでいくことから始め、その現在に至る変容の筋道上に、ぼんやりと影を残す程度のものとしての過去の僕についての言葉を、自分としても発見してみたいと思う。
 さて、今の僕自身とは——「気づいたら」の連続、だろうか。元来僕は何事にも確信犯たろうとしていたのだが、そう巧くは行かないということを思い知らされた。というのも、肝要なのは生活そのものなのだ。今まで外部の機能に委託していた(即ち、ありがたき家族)生活上の諸々の煩雑事が、一挙に降り懸かってくる。机の上の仕事はある程度プログラマブルにやってきたつもりだったのが、もっと広範な仕事まで含めて、自分の時間を組み立てねばならない。そうなると、かつてのひ弱な受験生は泡を吹く。いわば、カイロス的時間(=生活サイクル)と格闘する間に、クロノス的時間の設計を見失ってしまう。情けない話だが、だから「気づいたら」五月、というわけなのだ。
 いや、ある意味でこれは「情けなく」などない話なのだ。とりあえず、「一日どうやって生きよう」と思うこと、それは些細ではあるが、ちょっとした感動もある、あたりまえのこと。それに気づいた。何度か「気づいたら」を繰り返しているうちに、ひょいとそういう気分になって、妙に青い自分が可笑しかった。
 学問をすることは何たるものか、とさも偉そうに言う高踏派先輩諸氏もいないわけではないようだが(僕もかつてはそうだった気がするが)、大方の場合、「学問をする」場所・舞台に対する意識が低すぎるように思う。それは直接的な教育施設に関することではない。自分の居場所、そして身体である。僕の場合、再三繰り返している「気づいたら」のルフランの後、ぼんやりと形に成り始めた暮らし、ようやく見つめられるようになった僕自身の体温——そして洗濯物の匂いが心地良いような日曜日の窓辺に、何気なく夏らしい風が舞い込んでくる瞬間、振り返ると「学問」がダイニングテーブルに腰掛けていた、というようなものだ。
 今、僕は大変忙しい。「気づいたら」そうなっていた。そしてこれからは、常にそう「あろう」としている。僕はそういう生活を選んだことに満足しているし、同時にそれが選ばれてしまったということにも気づいているつもりだ。尤も、「気づいている」ことについて限りなくメタな立場であろうとしても、きりがない。それも早々に切り上げて、確信犯なんてものは本当はいないんじゃないのか、と思えば思うほど、受験期の僕などは「気狂いピエロ」である。
 では、この忙しさとは何なのか。答えのない問いだが、それはある意味、今まで「内発的欲求によって学ぶ学問」だと思っていた一連の領域が、「身体と共にある学問」へと孵化して、幼虫になっている、その世話の忙しさかもしれない。幼虫は少々気味が悪いか。ならば、僕の体の移し身としての「学問」が、一匹の黒猫になって、僕のflatで一緒に暮らしていると思っていただければよい。
 ——なかなか言うことは聞かないが、僕の移し身だから愛着がある。故に僕はやさしさを持たねばならないし、忍耐も必要だ。腹が減れば鳴き、糞尿もする——「学問」にそっくりだと思うのだが、いかがだろう。
 とにかく、僕はどこへでもその猫を連れて歩いて、余所の色々な猫に出会う。教授たちの老獪な猫、食事をろくにもらえないのでやせ細った猫。少なくとも大学にいるのだから、誰しも猫を飼ってはいるらしい。ただ、僕の印象からすれば、あまりにも可愛がられていない——つまり、やさしさがない。その人の人間的なやさしさや、熱意、血気などとは異質な、もっとやわらかい、猫こそが享受しうるやさしさ、それが足りない。僕はそれがアカデミズムと同質だとは思わない。もう少し違う何かなのだ。パラドクシカルだが、僕はそれを見つめるために学問をしているのかもしれない。
 以上、戯れ言めいたエッセイを書き連ねたが、果たして読者はどのようにお感じだろうか。ここから何らかの受験教訓を解読しようとしなくて、結構。それは豆腐と格闘するようなものだ。そう、これは豆腐なのだ——そして豆腐に対峙する人間には、それに相応しい作法が求められる。
 いずれにせよ、少なくとも「猫」を飼っていない人間は、大学に来ないで欲しい。僕の言うところの「猫」を飼えない人間が学力を身につけ、知識をかき集めようとする光景——そのなんと寒々しいことか。可哀想なことか。
 さて、そろそろ僕の猫に食事をさせねばならぬ時間だ。明日の朝、心地よい温度の中に目覚め、鏡の中の僕の瞳孔に猫の一督を重ね、さりげなくほくそ笑んで、そして自転車の乾いた音を楽しむために。

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