フーコーにおける三種の統治

ちょっと確認しておく。フーコーにおける三種の「統治」について。箱田徹『フーコーの闘争』第二章を参照する。

フーコーと言えば「規律訓練(ディシプリン)」で、これは直接に命令されなくても自発的に従属するように教育・訓育するという近代的な統治のやり方。

その前段階にあるのは「主権」権力による統治で、これは直接に暴力を行使し、見せつけ、ビビらせて言うことをきかせるもの。主権権力と規律訓練は『監獄の誕生』で説明されている。

で、規律訓練の後に三つ目がある。これは「安全(セキュリティ)」と呼ばれるもので、講義録『安全・領土・人口』がその議論のメイン。セキュリティのポイントは、規律訓練とは違って、一人一人に質的に働きかける(一人一人の内面に介入する)のではなく、大きな数の「群れ」として人を扱って、その全体に対して外在的・物質的に働きかけて、一人一人完璧にではなく、漏れがあってもいいから統計的に「だいたい」で統治する、というもの。

その代表例が感染症の対策。規律訓練モデルでは、一人一人が伝染らない/伝染さないように行動に「気をつける」(つまり個人の意志の問題)よう促すことになるが、セキュリティ的発想では、ワクチンを開発して生理的レベルで確率的にパンデミックを抑止しようとする。あるいは移動を物理的に制限する、など。

ところで、東浩紀と大澤真幸の『自由を考える』では、このセキュリティが「環境管理型権力」と呼ばれており、たとえばマクドナルドで椅子を固くすることで客回転率を上げるといった例が挙げられているが、セキュリティはそのようにかなり広い意味で、物理環境の設定、また身体への生物学的働きかけによって個々人の内面に関係なく統計的に統治することだと言えるだろう。

主権 → 規律訓練 → セキュリティ

おおよそこのように力点が時代と共に移っていったが、前の権力形態も働き続けていて、三つは現代でも混在していると見るのが妥当だろう。

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