複雑さ

 2019年10月13日——競馬のおじさんたちで喫茶店が混雑。皆が一斉に競馬新聞を見ている。「今日 競馬」で検索したら、秋華賞というのが出てきた。それなのだろう。
 別にいいかと思ってたけど、iPhone11、アリかもしれない。あのカメラ、なんかインスパイアリングだ。
 インスパイアリングかどうかという基準。
 ただそれを見ているだけ、それがそばにあるだけ、それに触れているだけで何かインスピレーションが湧いてくるようなもの。について考えている。

 AIの時代になった。それで、多少プログラミングで遊んだりしているうちに、人間の認識活動にAIの計算に似た過程があるならば、という仮定の下で(あるだろうと思う)、自分自身の「直感」のいくらかを計算過程として意識できるようになった気がする。なんとなくこれだとわかる、なんとなくアイデアの種が見える——そういうときというのは、何か「ひじょうに高速な計算」の結果なのだ、と。

 僕はいま部屋の模様替えをしている。ソファを選んでいる。良い物、という判断は直感的に複雑性を計算した結果だ。ある形が、直感的に選別される。その過程は言葉では追いつかないものだ。形をじかに思考すること。そのことが平倉圭『かたちは思考する』で論じられている。この本はAIの話につながる。
 だが問題は、「複雑」とは何なのかである。たぶん複雑なものが「良い」のだが、複雑さというのが認知や欲望とどう絡んでいるのか。

 ところでシンプルで良いもの、というのがあるが、あれはある種の複雑さなのだろうか。ただシンプルなだけでダメなもの、というのもある。そして、ややこしいことに、「複雑で良いものがむしろ嫌い」という価値観もある——たとえばクラシック音楽を敬遠する大衆的な感情はそういうものだろう。
 複雑で良いものはずっと見ていたくなる。無限性がある。人工物でそれができていると「作品」になる。作品は自然物に似ている。自然の木目や結晶の複雑さ、秩序とランダムネス。第二の自然としての芸術。だが、それがイヤだ、むしろペラペラの人工物で身を護りたい、というのもあるのだ。記号で身を護るのである。

 純正の芸術とエンタメという区別は、人間が人間(自然からはみ出した存在)だからこそ抱く、無限と有限に関する快と苦のジレンマに関わっている。
 どういうカルチャーを良いとするか、というか「どういうカルチャーで安心するか」というのは、無限性と有限性の配分の違いとして理解できるだろう。文化的クラスタの違いとは、何に「すがりたい」かの違いである。
 僕の芸術文化論の特徴は、「複雑で良いものがむしろ嫌い」という側を真剣に取り扱っているところにある。それとの関係で「複雑で良い」を再考している。

 複数の間接照明にすると部屋は複雑になる。それは味わい深くて良い。天井の蛍光灯一発にすると、単純で寒々しくなる——だが、その寒々しさにはエロティシズムがある。ムーディーな部屋の方がエロいだろうか? それもあるが、白々とした蛍光灯の部屋にはもっと邪悪なエロさがある。良い部屋は、邪悪さを欠いている。
 蛍光灯の部屋では、エロスの奥にある死の欲動、タナトスが照らされている。
 複数の間接照明の味わい深さと、蛍光灯一発の寒々しいエロさが両立しているようなハイブリッド。というのが僕の好みであり、また哲学的テーマでもある。

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