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ラリュエル、半睡、石

やらなければならないことがある気がするが、夜になった。雨が降っていて暖かい。最小限の買い物しかしなかった——というのは、普段の生活とそんなに変わらない。

今夜は少しフランソワ・ラリュエルを読んでいた。A Biography of Ordinary Man(『普通の人間のバイオグラフィ』)という本(英訳)で、風変わりな内容だ。普通の人間というのは、それ自体に内在的な「ただの」人ということ。それを捉える理論を考えようとすると、哲学から逸脱する。哲学あるいは哲学と関係する学問では、コギトだとか、主体とか属性とか、あるいは権力とかセクシュアリティとかそういうもので人間を分析しようとする。これら「そういうもの」をラリュエルは「オーソリティ」と呼ぶ。哲学と関わる限り、人間はオーソリティによって裁断され、従属的位置に置かれる。「人間とは〜である」という述定を受ける。それに対し、いかなる述定もなしに、人間をただの人間として主語に置くような、そのように具体的に人間を取り扱うための理論をラリュエルは提起するのだ。普通の人間は、オーソリティとは無関係な「マイノリティ」であるとされる。

ラリュエルは、具体的にして具体的なものは哲学による述定から逃れるので、それを考えることを「非哲学 non-philosophy」と呼んできた。普通の人間、その具体性は、非哲学の地平において初めて十全に肯定されるのである。

奇妙なことを考えるものだ。

ラリュエルに本格的に取り組んでいるとはまだ言えないが、これまで読んだ限りで、この理論にもとづいて何を言えるようになるのだろう、とずっと漠然と考えている。

僕が「意味がない無意味」と呼ぶもの、あらゆる解釈の手前にあるただの存在、というものについて考えたときにもラリュエルが念頭にあった。思うに、ラリュエルの理論からは、言葉を尽くして物事を解釈・分析し、正しい見方をディベートで追求することを拒否するような感じを受ける。ただそこにあるものがそこにある。それだけ。

僕が『デッドライン』で試した文体は、このこととある程度関係している。何かのインタビューで僕は「ノンシャラン」な書き方をしたかったと述べたが、モノの描写にせよ人の描写にせよ、解釈をくだくだ書かない。あれは一人称小説なので、解釈を展開するとそれは主人公の内省(内語)になるが、だから主人公の自意識をあまりくだくだ書きたくなかった。ただ、石をポンポンと置くように書く。あの主人公には葛藤があるが、その内省をドラマチックには書かない。その方が葛藤のリアリティを描いたことになると考えたからだ。葛藤とは、本人にとっては無意識的な不安であり、それは内なる盲点なのだから、その盲点性とでも言うべきものが追体験されるような書き方をしたかった、という説明が適切かもしれない。

無意識を書く、というのが文学において一つの課題だと思う。作品には、書かれていて明確な部分があるだけでなく、別の意味のネットワークが潜在している。

それを昨晩、佐々木敦さんの初小説「半睡」を読んで改めて考えた。「半睡」にはミステリ的な仕掛けがあり、僕は一読ではその答えがわかっていないのだが、そこで佐々木さんが(もまた)試しているのは作品の無意識をいかに立ち上げるか、ということなのだと思った。そこでは、虚と実、覚醒と睡眠、複数の人物の交錯によって、たえず「半」であることが問題とされる。無意識とは、自分自身の見えない半身である。見えない半身を、何本かの出来事の連なりによって編み上げていく。まさにその過程が、書くこと、あるいは語る=騙ることの必然性の立ち上がりと一致する。

パンデミックのなかで、僕はそれに対応する大学の業務もあり、気が塞がっていて自由に書きたいものを書く気持ちになれない。だから「何か」を書いてみようと思って、書いている。こういうときには、強いて解釈しようとしないことだ。ただ、石を置く。ただの人間として。自分自身を、小石の並びとして再構成する。そうすることが、書くことをただのタスクとして再起動し、そしていつの間にか解釈する力も出てくる。


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