なぜ書き残したいのだろうか?
最初のノートに私は「書きたいときに書きたいことを、残したいときに残したいことを」と、書いた。
だが、本当にそれだけなのだろうか?
確かに、現時点では、それ以上でも、それ以下でもない。
だが、まだ発見されていない目的(私がこのnoteでしようとしている無自覚なねらい)がすでにあるのだと、私は予感している。
だから、いまこれを書き残しているのは、それを見つけるためだ。
まだ発見されてない。けど、確かに私の内部にあるもの。それを発見したい。言葉に変換して、書き残し、保存しておきたい。そういう気持ちが私にはある。
なぜだろう?
いまなお、こう書きつつも、文中の主語を「“私”にしようか、“僕”にしようか」と迷う場面があったのだが、そのためらいこそ、「いまの私」を知る手がかりだ。
書きながら、こう書いている自分をみる。自分の「思索の動き・流れ」をみていく。そうすることで「いまの私」を知ることができる。
書くことで思索は進む。書くことがガソリンとなって、思索を走らせる。
だから、書くのかもしれない。書くことで思索するために。
最後に、ドイツの哲学者ショウペンハウエルの『読書について』の「著作と文体」の中で書かれた一説を紹介したい。
「一つの思想の真の生命は、思想がまさに言葉になろうとする地点に達するまで持続するにすぎない。その地点で思想は石と化し、その後は生命を失う。だが化石した太古の動植物のようにその思想は荒廃を免れる。我々は思想のつかのまの生命を、まさに結晶せんとする瞬間の結晶体の生命に比することができる。」
彼の言葉を借りるならば、私は自分の思想を化石化しておきたいのだろう。その化石化されたものを目の前に掲げ、眺めることで、私自身を理解したい。
そうしていくことで、次にどこに向かうべきなのか、見えてくる気がしている。それが、このnoteでの(現時点での)本当のねらいなのかもしれない。
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